第103話 商丘に帰りました

宿には他にも客がいたのですが、あたしという子供が料理長をするという話を聞きつけて、半分くらい宿を変えてしまったようです。まあ、仕方ないっちゃ仕方ないですね。むしろさっきの鹿肉の騒ぎで料理人が半分になってしまったので、助かるといえば助かります。

ところであたし、すでに周囲の料理人を驚かせてしまったようです。


「すみません、確かに私は鹿肉のなますの代わりがあったほうがよいと申しましたが、ジャガイモをそんなに薄く切ったら使い物にならないのでは?」

「いえ、これを焼いて塩をかけて前菜と一緒にでも出してください」

「言われた通り卵黄と油などを混ぜたらクリーム状になりましたが、これが調味料ですか?」

「はい、前菜のサラダに合うはずです」


などと、この宿の目玉料理らしい鹿肉の膾を却下した代わりに、小ぶりですがいろいろな料理を作っています。さすがに大技を出そうとするとそれなりの準備が必要になりますので、即席で作れるようなものを次々と作ってもらっています。もちろんあたしが一度作ってみせてから、料理人たちに真似をさせています。


さてさて、やっと料理ができました。これを次々と客室に運んでいきます。と、厨房の隅で料理人たちがひそひそ話しているのが耳に入りました。


「この偃師えんしのたいていの宿に泊まった人の1割くらいは数ヶ月以内に死ぬという悪い言い伝えがあったのだが、鹿肉が原因だと思うか?」

「いいや、俺は認めないね」


うん、ここだけじゃなく他の宿でもやってたのかよ。あの鹿肉でやってたのかよ。まず自分で食べて安全性確認しろよ。でも1割というのですから、運のいい人だけが料理人になったということかもしれません。いろいろ言いたいことはありましたがこらえます。

自分で料理させてくれたあたしたちは、逆に運がよかったかもしれませんね。前世でタイムスリップに憧れる人もたまにいましたが、それはつまりこういうことですからね。


◆ ◆ ◆


使用人たちが次々と来て、料理を運んでいってしまいます。でもあたしたちにはまだやることが残ってます。まかないを食べた後、厨房を片付けて明日の仕入れをしなければいけません。朝の仕入れで夕食の分まで集めなければいけません。ああ、あたし、明日の朝までの約束でしたね。

まかないでは生の豚肉が出たので、あたしはその場で焼いて食べました‥‥が、他の料理人たちが生で食べているのを見て、あたしは思わず叫んでしまいます。


「今すぐ生肉食べるのをやめて、吐いてください!」


この世界の人達どれだけ生食好きなんだよ。しんや商で自分の部下になった5人の子供の料理人たちには、牛、魚以外の生食は禁止と言って聞かせているのですが。たまに厨房全体を取りまとめる料理長の指示や、外側の貴族の要望で作らなければいけないこともありますが、しょうに来てからは子履しりも一緒に止めてくれることがあるので助かってます。‥‥と思ったら、料理人たちが不思議そうな顔をします。


「あなたは焼いて食うのがそんなにお好きなのですか?」

「‥‥好き嫌いではなく、生肉には寄生虫が、えーっと、目に見えない小さい虫が入っていることがあります。それが体の中を食べてしまいます」


もうここまでの騒ぎになったのですから、言っちゃっていいですよね。料理も配っちゃったので、これ以上混乱が起きても失うものはないですし。


「そんな話は初めて聞きましたよ。どこかのうらない師がそう言っていたのですか?」


あー、また占いだよ。科学は科学、占いは占いって現代ではきっちり区別されてますけど、この世界では政治や医療にすら占いを持ち出してきますからね。うっとうしいことこのうえないですが、ここは適当に話を合わせたほうがいいかもしれません。


「はい、莘の国につとめていたころに、卜い師からそう警告されました」

「なら自分たちは食べていいですよね」

「えっ?」

「だって莘の卜い師は、莘に向けて卜ったのでしょう。私たち偃師の人は体の作りも違いますから、関係ないですよね」


あたしが呆然としているうちに、料理人たちはみんな生の豚肉を食べてしまいました。‥‥‥‥‥‥‥‥まあ、子履たちに被害が及ばないだけまだましかもしれません。そう考えておくことにしましょう。前向きに考えましょう。前向きに。


◆ ◆ ◆


老丘ろうきゅうまで来ました。姚不憺ようふたん任仲虺じんちゅうきに引っ張られる形で、別の道を通っていくことになりました。あ、最後に姚不憺は「あのなます伊摯いしが作ったの?おいしかったよ、また食べたいな」と言ってくれました。「はい!」と元気で返事するあたしの足を子履は踏んできましたが気にしてません。うん。


さて、前世の話ができるのは残念ながら子履1人しかいないんですよね。なんとか及隶きゅうたいを横に座らせて、隣に座るスペースはありませんよアピールして子履を向かいに座らせることに成功したあたしは、子履の機嫌が直るのを待って偃師のことを話してみました。


「それは災難でしたね。ですが、この世界の人達には科学という概念がないので、説得するのは難しいでしょう。私も歯磨きの説明をしましたが、任仲虺や妘皀目うんきゅうもくは納得しなかったでしょう」


やっぱり子履は予想通りの答えでした。


「科学って何っすか?」

「あー、難しい話だから気にしないでね」


あたしは及隶を膝に寝かせて、ゆっくり頭を撫でます。


「確かにの言う通り、この世界の人々は何かにつけてうらないに頼ります」

「卜いってそこまで大切だったんですかね‥‥?科学や医学を上回るなんて」

「はい。そもそも中国では、しょうの時代は、そのあとのしゅうの時代に比べるとイメージとしてはいわゆる神権政治に近く、卜いが盛んだったといわれています。この世界はそれほどではないようですけどね。特に前世の商の遺跡からは1万5千にわたる人骨が発掘されており、商が周辺の異民族を狩っては神に生贄として捧げ卜いをおこなったのではないかといわれています。商の滅んだ理由は子受しじゅ(※紂王ちゅうおう)が暗愚だったという『史記』などほとんどの史書にある説が最もメジャーですが、生贄を作りすぎて周辺から反感を買ったという異説もあるくらいです」

「ひええ」


この世界の感覚と少し違うというか極端ですね。世界が違うとはいえ、古代中国の人っておそろしいことを考えるものですね。


「反乱の正当化にすら卜いが利用されるのですよ。讖緯しんいによる禅譲がしん王莽おうもうによって確立されましたが、それ以前にも陳勝ちんしょう呉広ごこうが反乱を起こす直前に神のお告げを偽装したという話が『史記』に記されていて」

「あっ、たいの国が見えてきましたよ!」


また話が長くなりそうな予感しかしなかったので、あたしは適当に窓の外を指さして叫びます。商の国は、この国を超えたらもうすぐそこです。子履は少しの間頬を膨らませていましたが、やがて窓の外側の景色に少しずつ人が増えるのに気づいて、眺めます。

戴の国の兵たちが護衛として出迎えてくれます。他国の公子が国の中で危険な目にあったならばそれは戴の国にとって失態ですし、面倒でも護衛しなければいけませんよね。お疲れさまです。


◆ ◆ ◆


そこの宿で一晩を明かして次の山を超えると、まだ商まで距離があるというのに商の兵士がこの馬車を出迎えてくれました。あたしが子履の代わりに馬車から降りて、兵を率いる林衍りんえんという商の将軍に拝をして、子履の無事を伝え‥‥ようとしたら、逆に将軍があたしに拝をします。あたしも将軍もお互い地面にひざをついているのはなんとも不思議な光景です。


「林将軍、あたしは身分が卑しいながら殿下のご厚意で馬車に座らせていただきました。ご無礼に思われたのなら、いかなる罰でもお受けいたします。将軍に頭を下げられる権利はございません」

「いいえ、あなたはもう殿下の婚約者ではございませんか。私がこうして必要な礼を取らないことは、かえって失礼にあたります」

「それは‥‥‥‥」


うん。既成事実になってますね。どうしてこうなった。あたしは少しの間固まって、周りの目を伺っておそるおそる馬車に戻りました。

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