第231話 羊玄の苦悩

自ら望んでの国に行った羊玄ようげんは、決して無策というわけではありませんでした。もちろん今の夏后履癸かこうりきを放置してはいけないことを理解しています。羊玄には腹心や支持者が大量にいて、彼らはまだ斟鄩しんしんに留まっています。彼らを通して、夏后履癸の愚行を止めるのです。

あえて自らを巴の国に置いたのは、一番の理由は竜の襲撃を招いだ責任を取るためです。この世界の竜への信仰は厚く、それがの首都である斟鄩へ襲撃してきたとなれば諸侯が離反する事態になりかねません。それを抑え、あくまで責任は夏という国ではなく、夏の内政を取り仕切っていた羊玄個人にあることを明らかにしようとしたのです。竜が襲撃してきても羊玄はしばらくは斟鄩に留まっていましたが、和弇かかんが乱を起こしたことにより、単に竜の気狂いでないことが示されるのをおそれていました。周囲の判断を押し切ってでも、諸侯の離反を防ぐにはこれが最善と判断したのです。

それでもなお夏后履癸の行為は目に余ります。羊辛ようしんや他の家臣にはああ言ったものの、あくまで巴へ行くのはポーズにすぎません。斟鄩に残っている腹心と連絡を取り、内政を裏から指導していました。


羊玄には気にかかることが2つありました。

1つは、あれだけ自分を引き留めようとしていた羊辛が今年の正月、ここに来なかったのです。親子の関係であり、約束した以上はいくら忙しくても来るべきですが、来ないどころか詫びの手紙の一つもよこしてくれません。羊辛は忠義者、良臣として評判でしたから、それが羊玄には不自然に映ったのです。

1つは、羊玄が手紙を送った相手が次々といなくなっていることです。ある家臣に手紙を送っても、その返事を書いてくるのは別の家臣で、その返事の中で先の家臣がいなくなったことを知るのです。その家臣に詳しい事情を尋ねる手紙を送っても、また別の家臣が話をはくらかすような手紙を送ってくるのです。


どうしても気になった羊玄は、間諜を放って斟鄩の様子を探らせます。いなくなった家臣への接触、最近の夏后履癸や街の様子を、手紙ではなく間諜を通して知る必要があると判断してのことでした。羊玄は斟鄩に残した何人もの腹心のことをはじめは信頼していましたが、このかすかな違和感が猜疑心を抱かせるのです。自分自身の国に対して間諜を放つのも、あまり好きなことではありませんでした。


やがて間諜が斟鄩から帰ってきました。羊玄はその話を使用人から聞くやいなや、着替えもそこそこに、老体に鞭打つように玄関の先へ駆けつけました。


「ご苦労であった、街の様子はどうだった?」


3人いた間諜はお互いの顔を見ます。その少しの間で羊玄は覚悟しました。意を決したように、1人がしゃべります。


「道は餓死者で溢れています」

「施しはあるのか?」

「ございません。それどころか、昨年の晩秋ころから餓死者を焼き払うようになりました」

「なんだと!?誰がなぜそんなことをやっているのだ?賊か戎狄じゅうてき(※異民族)でも攻めてきたのか?」

「それが‥‥陛下が、寒いから暖を取るためにと」


羊玄は固まっていました。片手で頭を抱えますが、しばらくして頭から手を離して話を続けるかと思いきや、もうひとつの手と一緒に再度頭を抱えます。


「それは街ではやった歌ではないのか?陛下のおこないを誇張するような歌ではないのか?」

「いいえ、実際に我々も死体を焼き払うところを見ました」

「い‥‥今は夏だろう。暖を取るのとはまた話が違うではないか」

「死体の多くは郊外で燃やされていましたが、近所の家に飛び火していました。冷夏では作物は育たないからどうせならと、畑まで引きずり込まれて、そこで燃やされている人もおりました。もちろん農民の承諾も得ず役人が勝手にやっているもので、作物にも延焼しておりました。役人はとにかく街から死体を取り除かねばいけないと、取り憑かれたみたいにうわごとのように繰り返していました。それから‥‥」

「もういい、もういい。お前たち、わしをからかっているのではないな?」

「はい」


3人とも口を揃えて頷くので、羊玄は「3人では少なすぎたようだな‥‥」とぼやいてため息をつきました。


「陛下はどんな様子だ?」

「それが‥昨年、鋳腑すふなるものを発明したようです」

「鋳腑とは?」

「刑罰の名前です。受刑者を裸にし、逆さ吊りにして、尻に溶かした金属を入れるものです」

「そんな刑罰、誰も止めなかったのか?」

「あなたの腹心も含め、何人かが止めました。淳維じゅんい殿下を除き、全員が処刑されました」

「なんと、手紙が来なかったのはそれが原因だったのか‥‥」


羊玄はふらついて、玄関のドアにもたれてしまいます。「はぁ」と深くため息をつき、天を仰ぎます。


「淳維殿下は今どうなっているのだ?」

天水てんすいへ赴くことになったようです」

「なんだと?じゅう(※異民族)と戦うのか?」

「どうやらそのようです」

「自分の息子で跡継ぎを、そんな危険な場所へ行かせたのか?陛下が決めたのか?」

「いえ、それは淳維殿下がみずから志望したらしく」


その間諜のできる限り淡々とするようつとめていながらも抑えきれず声が上ずっている返事で、羊玄は淳維の境遇を理解しました。「そうか」としか返事しませんでした。

そのあともいくらか話を聞いた後、間諜たちを帰して屋敷の中に戻りました。最上級の貴族とはいえ、巴という僻地にある屋敷は2階建てて中もあまり広くありませんでした。壁からは時々わずかなひびの見えるその廊下から、古っぽく苔茶色になっているドアをギギギという音を立てて開け、ふうっと椅子にもたれました。すぐに虞庵ぐあんという人も入ってきました。虞庵は巴の人でしたがもとから羊玄をいたく尊敬しており、巴へ来たと聞いた時に羊玄のもとへ駆けつけ、以降は側近を務めています。


「わしが斟鄩を離れたのは間違いだった」

「お気持ち、お察しします」


虞庵は持ってきた茶を羊玄の机の上にひとつ置きました。羊玄はそれを飲みますが、半分残しました。


「今すぐ戻るべきだろうか」

「師はみずから5年の期間を設けられ、みずからを罰しました。機が来るまでここを動くべきではありません」

「それはそうだろう。まったく、わしのいない間にここまで動くとは思わんかった。何人もの腹心を置いてきた。あれで当面は安泰だと思った。しかし、あれではまだ足らぬということか。それどころか陛下のおこない。何もかもわしの想像を超えている」


そこで羊玄はまた黙りました。


「師、斟鄩に協力者はあと何人残っておりましょうか」

劉乂りゅうがい(※史実の人物とは無関係)、田芳でんほう妘勝うんしょうの3人だ」

「では、その人に手紙を送り、せめて死体を焼き払うのを止めてもらってはどうです」

「そうだな。竹簡をくれ」


こうして虞庵から受け取った竹簡に、羊玄は文言をしたためます。


◆ ◆ ◆


果たしてそれが斟鄩に到着したころ、夏后淳維が戎に亡命し、公孫猇こうそんこうが格下げされた直後でした。羊玄は3人それぞれに竹簡を送りましたが、一番の誤算は、うち2人がすでに刑死していたことでした。夏后淳維が斟鄩を離れた後、さらに多くの家臣が処刑されたのです。残る1人の劉乂も、所用で河北(※河/黄河の北)へ行っていました。


竹簡のうち1つは劉乂の使用人が受け取りましたが、残る2つは配る相手がいないということで宮殿の役場へ戻ってきました。他にも宛先へ届けられなかった竹簡や手紙はたくさんあります。そこへ偶然、岐踵戎きしょうじゅうがさしかかりました。


「この竹簡の山は何だ?」

「はい、宛先が存在しない手紙です。例えばこの2つは、羊右相から田芳さま、妘勝さまへあてた手紙です」

「ほう、その2人はこの前死んだ奴らだったな。ん?羊右相から?ちょっとそれを見せてくれ」


岐踵戎は、固まった役人から半ば奪い取るようにその竹簡を開いて、それから「へえ」と不気味に笑います。


「これはわしが預かってやろう」


そうやって岐踵戎は竹簡を持って帰り、しまいには死体の山に投げつけて燃やしてしまいました。

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