第232話 夏后履癸に手紙を書きました

さて、なんだかんだで子履しりが三年の喪に服してから二年目のこの年もつつがなく終わろうとしています。

から亡命してくる家臣もめっきり減りましたが、たまに何人か来るのでそのたびに夏の話を聞いています。ひどい話ばかり聞きます。夏后履癸かこうりきはまともじゃないと斟鄩しんしんにいたときから思っていましたが、ここまでするとは正直想像していませんでした。王様って暴走するとこんなにひどくなるのですね。暴走を止められる家臣はいないのでしょうかと何度も尋ねましたが、そのたびに殺されているという返事をもらいます。


「夏王の兄が後宮へ押しがけたけど、門前払いされたんだ」


この日、あたしと向かい合って座っている人は、頬杖をついていました。まあ仕方ないですよね。夏で散々苦労されたのでしょう。


「ところであなたはこのへんの役人ですか?」

「いいえ、かん尚書しょうしょ(※王の文書の管理を行う役職)の助手をしている伊摯いしと申します」

「え、えええっ!?こ、これは失礼しました」


頬杖していた手を引っ込めますが、あたしは「大丈夫ですよ、たいへん苦労されていたと思いますので」とフォローを入れます。このやり取りも慣れたものです。


「あなたのような子供がそのような大役を担ってるとは思わず」

「よく言われますよ。あくまで助手なので、あんまり権限はないのですが。逆に言えば、このしょうは才能さえあればどんな人でも登用する国ですよ」


このやり取りも何回目でしょうか。相手の怯えようを見ていると、この世界では無礼な態度を取った人にはもっと厳しくするのが当たり前なのかもしれません。


「夏王さまの兄とは、散河さんか様でしょうか?」

「ああ、そのとおりです。今の夏王と違い民を慈しむお方で、権力を好まず、帝位から遠ざかって斟鄩の奥のほうでつつましくお暮らしになっています」

「なるほど」


あたしは筆で紙に簡単にメモを取ります。そして「あっ」と思わず声に出します。また日本語を書いてしまっていました。まあ後できちんと書き直せば問題はないでしょう。最近はこの世界の言葉で書かれた本も、辞書をあまり見ずに読めるようになったのに、何で油断するとまた日本語を書いてしまうんでしょうね。


「そうだ、淳維じゅんい殿下はお元気でしょうか?」

「殿下でしたら天水てんすいを土産にじゅう(※異民族)へ帰順しましたよ」

「ええっ?詳しく聞かせてもらえますか?」

「私も朝廷にいただけなのでよく分かりませんが、淳維殿下は自ら天水への異動をご志望になり、斟鄩を離れた直後に夏王が公孫こうそん大将軍を通して姜几きょうき韓敯かんびんに命じて淳維殿下を追いかけさせました。それでご絶望なさった淳維殿下が咸陽かんようを占領し、ついで天水を戎とともに挟み撃ちにして奪いました」

「ええええ‥‥」


耳を疑います。あたしも子履も、夏后履癸が早く退位することを望んでいましたが、それは次の王様に有能な人が選ばれるのが前提です。一体夏王さまの次は誰になってしまうのでしょうか。


「そうだ、商も気をつけたほうがいいですよ」

「えっ?」

「今、新しい宮殿を作るという話が持ち上がっています。その宮殿を早く建設するために、各地から人を集めるようです」

「各地‥‥とは?」

「もちろん諸侯です。噂によると、朝貢の一部として人手を要求するようです」

「人手ですか‥」


あたしはそのあとも、相手の話をメモにしるしていきます。


◆ ◆ ◆


「断固反対です」


朝廷でメモを読み上げたあたしに対して、子履は当然というように言いました。このようなメモは朝廷の前にこっそり子履と共有していましたが、今回は亡命してきた家臣と面会した翌日に朝廷があったので時間は作れませんでした。


「冷夏で作物も育たず民はひどく苦しんでいますし、さらに暴政が追い打ちをかけていると聞きます。そのような国が宮殿を建てると言っても、誰も聞いてくれないでしょう」

「しかし夏の軍事力は強大ですし、我々が束になってかからない限り勝てる相手ではありません。その諸侯ですら一枚岩ではなく、例えばこの商の隣りにあるかつという国なんかは夏への忠誠を公にしています。どこの諸侯も不用意に反乱を起こすと前や後ろから挟み撃ちにされます。結局みな夏の言うことを聞くでしょう」


徐範じょはんがたしなめますが、子履は頭を抱えます。


「伊摯の話が正しければ、工期は3ヶ月とのことです。8階建ての宮殿を3ヶ月で造るのなら、当然過酷な仕事になるでしょう。このままでは人を死に追いやるようなものです。そのようなことを、王としてむざむざ許可するわけにはいきません」

「ですが、断ると夏が何を仕掛けるか分かりません。この商のような小国、そこそこの軍を向けられたら一ヶ月もかからず落ちるでしょう。実際に蒙山もうざんの国などはそのような運命を辿っているのです」


子履はまた深くため息をついて、「‥‥夏から勅使ちょくしが来られたわけでもありませんし、その時にまた話しましょう」と、目を閉じながら話しました。

朝廷は終わりになりましたが、なんとなく腑に落ちません。死ぬと分かっていて人手を派遣するわけにもいきませんし、かといって派遣しなければ国ごと潰される可能性もあります。ひどく理不尽な話です。


あたしは宮殿から出て外を歩いていましたが、今、後ろ頭に何かがぶつかったような気がします。振り返ると、紙飛行機が落ちていました。周りに人はいませんが、少し向こうの方で人の歩いた足跡がうっすらと見えます。まあ、紙飛行機なんてこの世界にはありませんし、おおかた犯人は見えています。とれとれ。今夜小屋に行く時、筆記用具を持ってきて欲しいらしいです。一体どうしたのでしょうか。


◆ ◆ ◆


「手紙を書くのですか?夏王さまに?」

「はい」


子履はそう言って、魔法を使ってしつらえた簡易的なテーブルに竹簡を広げました。テーブルの材質は土ですが、きんの魔法を組み合わせて表面をていねいつるつるにしていますので、見た目はともかく、使い勝手は普通の机とほとんど変わりません。

筆に墨を染み込ませます。


「手紙で夏王さまが納得されるとは思いませんが」

。戦国時代、黄歇こうあつを知っていますか。手紙をしんに送り、楚の滅亡を防ぎました。秦が起こした大軍を、たった一つの手紙が止めたのです。これで済むなら平和的だと思いませんか」

「た、確かにそれは理想ですが‥‥」


身も蓋もなさすぎる話です。あたしだけでなく子履も夏王さまに実際に会ってその下衆な性格を見てきましたし、夏から亡命してくる家臣たちを通して恐ろしい暴政の話を聞いているはずです。それなのに懲りずに手紙を送って愚行を防ごうとするのは、一種の狂信に見えました。


「やめてください、こんなことをして様の身に何かがあったらどうするのですか?」

「可能性はほぼないかもしれませんが、私はこれに賭けます。最初からやらないよりも、やって後悔したいのです」

「それは身の安全が保証された前世の話でしょう。この世界はそうではないです。人の肉を料理として出す人もいますし、人をおもちゃのように焼く王様もいます」

「黄歇はその危険を冒してでも、秦へ手紙を送りに行ったのです」


子履の真剣な横顔を見て、あたしはそれ以上何かを言う度胸がありませんでした。あたしは子履のこういうところが好きですが、同時にこの蛮勇が将来子履の身を滅ぼすことがあったらと心配になります。でももしかしたら‥‥だめです。期待してはいけません。あの王様には期待できません。

何もできることがないのなら、せめて手紙が夏に届くまでにあたしが回収してしまう方が早いでしょう。子履には本当に悪いことをしますが。あたしはそう思いました。

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