第230話 嬴華芔と妺喜

新居に引っ越してからというものの、あたしは厨房に行くたびにこっそりこっそり忍び足で歩かなければいけなくなっていました。

曲がり角にさしかかるたびに隠れて、こっそり向こう側を確認します。問題がないことを確認してから、こっそり進みます。理由はもちろん決まっています。


あたしの肩を、後ろからぽんと叩く影。

小太りで、今年ようやく10歳になったあたしより背は高いけど、他の大人の女性と比べると少しだけ低いその女性は、今日も何事もなかったかのようににこにこしています。嬴華芔えいかきです。


伊摯いしさま、先週の話がまだ途中だよ?」

「ひっ‥今は忙しいんです!!」


あたしは全速力で逃げます。走ります。死ぬほど走ります。平民あがりですから、貴族の中でも走るのは速い方です。下手すればあたしが一番速いです。ですが嬴華芔はそれを上回るスピードであたしを追いかけます。ニコニコ顔で。

もう仕方ありません。ここは2階の吹き抜けです。向こうに階段がありますが、この柵を飛び越えて1階に飛び降ります。もちろん前世の一般家庭よりも天井は高いですが、平民あがりの体力でなんとか着地します。さすがに嬴華芔も2階からジャンプはできないでしょう。厨房はすぐそこですから走ります。この曲がり角を曲がればすぐそこ――‥‥


「ひっ!?」


あたしは尻餅をつきます。厨房のドアの前に嬴華芔が2人立っています。逃げないとと思って後ろを振り返ると、そこにも嬴華芔、天井にも嬴華芔が張り付いてますし、壁を割ってまた嬴華芔、地面からにゅっと出てくる嬴華芔、壁からぴょこっと上半身を晒す嬴華芔、あちこちから嬴華芔が集まってきます。


「おばさんとおしゃべりしましょ?」

「ひいっ、いやだああああああ!!!」


と叫びながら飛び上がります。あれ、これ布団ですね。ベッド。ベッドだ。荒い息をつきながら周りを見渡して、今の状況を理解しようとします。

しばらく呆然としていましたが、やっとそれが夢であることをいま理解しました。夢ですね。本当に夢ですね。窓の外からはすでに朝日が差し込んでいます。怖い夢です。現実にああなってほしくないものですね。


「おはよう」

「ひいっ!?」


すぐそこに嬴華芔がいました。ええっ、何で!?


「お掃除の時間だよ」

「え、えええっ、こんな朝早くから掃除するのですか!?」

「あれ?もうお昼近くだよ?」

「えええっ!?しまった、朝廷に遅れます!!」

「今日はお休みじゃない?」


慌ててベッドから飛び降りたあたしは、はあはあと荒い息遣いでしばらく立ち止まっていましたが、「そうでした‥‥‥‥」と言いながら呼吸を落ち着かせます。


及隶きゅうたいさまが、いつもは鶏鳴けいめいの刻に起きるのに珍しいとおっしゃってたよ」

「及隶さまって‥‥」


あたし、まだ夢を見ているのでしょうか。


「貴族だし、あたしゃそう呼ぶもんだよ」


‥‥ああ、確かにそうでした。及隶も今は立派な貴族で、一方の嬴華芔は平民です。あんなちびっこですが、身分の上では及隶のほうが偉いのです。なんだろう、頭では分かっているのに、こうして言葉にされると違和感がものすごいです。体が小さいのもあるのかな。


あたしは厨房の料理長ですが名誉職のようなもので、あたしが出勤する時は指示もしますし、料理人から相談されたり難しい料理を代わりにやったりするのですが、別にあたしがいなくても現場は回るようになっています。ていうかあたしも貴族として朝廷に行く日は料理できないことが多いので仕方ないところもあります。

でもあたしにとって料理は趣味のようなものでした。あたしにとって当たり前の日常だったのです。きっと今頃昼食もできかけでしょうし、今日の夕食の時間には別な貴族の宴会に呼ばれているので料理できません。料理できる日が1日減ってしまいました。あたしが深いため息をつくと、目の前におにぎりがやってきます。


「おはようございます、こんなに遅いのは珍しいっすね」

「ああ、たい、ありがとう‥」


おにぎりはもちろんこの世界には存在しない料理なので、あたしが発明したということになっています。もっともこの世界では冷えた料理は好まれないというか、食べる習慣そのものが少なくとも貴族の間では無いのです。なので弁当もありませんし、おにぎりも携帯食ではなく娯楽の一環として作られる程度です。最近は持ち運びしやすいということに気づいた人もいましたが、それでも冷めるほどの距離まで運ぶという発想はまだありません。

差し出されたおにぎりと緑茶を体の中に入れます。おにぎりの中に入れる具が料理人や貴族のささやかな楽しみらしく、具がなければおにぎりはこの世界の人間に受け入れられなかったと言っても過言ではありません。海苔はありませんが、手が汚れることを気にする貴族が多いので、食べられはしませんが大きい葉が下半分についており、それを持って食べるのです。今日の具は鮭でした。


軽食をたいらけると、及隶は「今日の昼食は、トラブルがあって遅れるらしいっす。今から1時間くらいっす」と言って、お盆やお茶を下げました。あたしが「ありがとう」と言って、部屋を出る及隶を見届けたところで、すかさず嬴華芔が声をかけてきます。


「まさか商でもきさきの部屋を手入れするとは思わんかったよ」


ああ、また始まったかこの人の長話。悪気はないようですし、上の立場から命令してやめさせるのもやりづらいです。でも迷惑なことには変わりないです。あたしがさっさと着替え始めようとしても、嬴華芔は窓を拭きながら延々と話し続けます。


「あたしゃでもきさきの部屋の手入れをしていたけどさ、夏には豪華なものが多くてねえ、例えば妃の寝ているベッド‥‥」


‥‥あれ?夏の妃?あたしはふと思い出して、嬴華芔に話しかけてみます。


「あの‥‥その妃のお名前って‥‥」

妺喜ばっきって言うんだよ。あんたみたいに若い子でさ」

「妺喜さま‥」


久しぶりにその子の名前を聞きました。子主癸ししゅきが崩御したときに手紙を送りましたが、それっきり相手からの返事はまだ届いていません。最初の頃は心配していましたがそのうち身辺が忙しくなって忘れかけていました。


「あの‥妺喜さまはお元気でしたか?」

「おや、知り合いかい?お元気でいらしてたよ、少しやつれてたようだけど」


そう言って嬴華芔は目を細めます。


「妺喜さまのところでお勤めなさってたのはいつ頃までですか?」

「去年の春くらいまでだねえ、すぐ追い出されたよ、あたしのどこが悪かったんですかねえ。そのあとは帝丘ていきゅうにいた愚息を誘って、このはくまで来たわけでさ」


嬴華芔は苦笑いをします。笑っているといってもそれは声だけで、窓を拭いている嬴華芔の表情は推し量れません。


「あの、妺喜さまのお話をお聞きしたいです!妺喜さまはどのような様子でしたか?」

「そうだねえ、泣いてたよ」

「泣いてた?」

「あたしには笑顔で振る舞ってたけどさ、隙のある子だったよ。表情の片隅に、ものかなしげな何かはあったねえ」

「‥‥‥‥‥‥‥‥」

「式の時はあんなに喜んでいたのにねえ」

「‥‥‥‥‥‥‥‥妺喜さまが無理矢理連れてこられたのは知っていましたか?」

「もちろん知っているとも」


さっきまであんなにおしゃべりだった嬴華芔は、心なしか、今は言葉を選んでいるように思えます。嬴華芔は掃除の手を止めて、ぼやきます。


「ここからはあたしの独り言だけどさ」

「はい」

「いま、夏の家臣が次々と殺されている話を聞くけどさ、妺喜さまが絡んでいるようにしか思えなくてねえ」

「‥‥えっ?」


確かに夏から亡命してきた家臣はいたのですが。

妺喜?あの妺喜が?


「すみません、その話、詳しく‥」

「独り言でねえ、深く聞かんどくれ」


嬴華芔は窓拭き掃除を終わらせると、次ははしごを置いて、棚の上を拭き始めました。しかし‥‥いつもなら最後まであんなにおしゃべりの嬴華芔が、このときばかりは妺喜以外の話題を慎重に選んでいるのがどうにも不気味でした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る