第229話 貧民街の路地裏に(2)

みせを出ました。相変わらず周囲にある家はよく掃除されていないのか汚れが目立ちますし、すれ違う人たちも破れた服、汚れた服、つぎはぎの服を着ています。


「あたし、あの肆をなんとかしたいです。助けたいです。あの味はとてもいいのです。こんなところにあっていい肆ではありません」


あたしは、少し後ろを歩く簡尤かんゆうに言ってみました。簡尤のほうが身分が高いはずなのですが、あたしは子履しりと婚約しているからという理由で、実際は簡尤が一歩下がっています。もちろんあたしはこの件に関しては何もお願いしていないです。


「助けるとは、どうやって?」

「あの肆を元の一等地に戻せば、また人が集まるはずです。でもあの肆にはお金がありませんから、一等地を安く譲ってもらえるよう役人にお願いします」

「それはよくありませんな」


薄暗い道で、簡尤は立ち止まりました。


「えっ?一等地に戻しただけでは繁盛しないのですか?」

「違います。その考えは間違っています」

「えっ」


簡尤が、かたわらにあったぼろぼろで雑草だらけの小さい公園を指さしましたので、あたしも一緒にそこに入ります。公園は無人でしたが、2つあるベンチのうちでも比較的ましなほうに並んで座ります。


「いいですか。確かにあの肆の食べ物は大変おいしいものでした。でも本当にあなたの言った通りの方法であの肆を一等地に移転すると、はくの人は困ります。理由は分かりますか?」

「えっ?あの肆のデザートの味はとてもいいので、あれが広まれば亳の人たちは幸せになれるはずです。絶対に亳のためになるはずです」

「気持ちは分かりますが、方法が間違っています。この亳には、先程のような境遇の肆が他にもたくさんあります。それらを差し置いて、たった1つの肆だけ特別扱いにするのであれば、それは権限の濫用です」

「あっ‥」


確かに簡尤の言うとおりです。あたしはあの肆と知り合いだから、境遇に同情しているからという個人的な理由で特別扱いしようとしていました。いったん気づいてしまうと恥ずかしくなってきます。


伊摯いしさんは善意でそう思ったかもしれませんが、一線はわきまえないといけませんな」

「確かにその通りです。でもあの肆を助ける方法はないんですか?」

「伊摯さんご自身の資産で助けるならそれもありですが、あまり多くのお金はないでしょう。伊摯さんなりに考えてみることです」

「あたしなりに‥」


簡尤は空を見上げますが、あたしは膝に肘をつけて、うーんと考えてしまいます。「あまり難しく考えることはありませんぞ」と、簡尤は立ち上がりました。


「すでにあなたは、このしょうの国に無い概念をいくつも持ち込んでいます」

「えっ、そうですか?」

「例えば、饂飩うんどんやチャーハンというものを斟鄩しんしんで披露なさったとか」

「ああ‥」

「それから、需要曲線・供給曲線という全く新しい概念を持ち込み、物価の変動がなぜ起こるか、変動はどこから規制すべきかのラインを論理的に説明することに成功しました」

「えっ、そうだったんですか!?」

「はい。それまでは私も含め、物価の上昇は商人が一方的に悪いという考えが支配的でしたから。あなたのおかげです」

「初耳です」

「私は何回も説明しましたけどね‥説明の仕方が悪かったのか」


簡尤は苦笑します。あたし、そんなすごいことしてましたっけ。というか‥‥ああ、そもそもこの世界は、建築物がヨーロッパ風で文化もいやに発達しているということを除けば、古代中国です。日本では弥生時代もまだ始まっていません。そんな時代ですから、学問もほとんど発達していないのでしょう。そんな状態でヨーロッパ風の、古代中国では実現できなさそうな豪華な建築物がなぜ造れたのかは分かりませんけどね。

今って紀元前1600年台?だとしたら、前世とは約3600年の開きがあります。3600年も後に一般化した概念を、あたしは持ち込んできてしまったのです。そんな自覚がないといえば嘘になるのですが、あらためて考えればとんでもありません。


「さて、行きましょう」


と簡尤が立ち上がりましたので、あたしは思わず「待ってください」と言います。


「どうかしましたか?」

「その‥さっき言っていた、同じような境遇の他の肆を紹介してください。あたしにしかできないことがあれば、できる限り力になりたいです」


それを聞くと、簡尤はまた笑いました。


◆ ◆ ◆


「ということがあってすっかり疲れてしまったんですよ」

「お疲れ様です」


子履しりの小屋にまた潜り込んできたあたしは速攻で地面にへばりついて、今日あったことを一通り話してからため息をつきました。土のついているあたしの背中を、子履は優しく撫でています。


「それにしても、の食べた砂糖菓子付きのびん、私も食べてみたかったです」

「あれ、具体的な食べ物の話はしましたっけ」

「あっ‥‥そのような夢を見ただけですよ」


子履がごまかすように笑って視線を外します。ふーん。奥の方にある穴がちょっと大きくなってるような気がしましたが気のせいではなかったかもしれません。


「履様」

「はい?」

「あたしの今日の散歩、どこまで見たんですか?」

「何のことでしょう?」

「あたしが散歩している間、ずっと下に潜ってついてきましたよね?」

「そ、そんなことは、ありません‥」

「ふーん‥‥」


まあ、あたしも今日の散歩中に気づいたわけではないので、これ以上は詮索しないでおきます。次見つけたら捕まえますよ。うん。


「あまりやりすぎると大きい落とし穴ができたり、地盤沈下したりするかもしれないので気をつけてくださいね。掘った土はきちんと後ろのほうに固めてください」

「ですから私はそのようなことはしていません!」


暴れる子履もかわいいものです。

しばらくしてあたしの膝にかじりついた子履は、ふと思い出したように尋ねてきます。


「ところで、あの肆を助けるためにどうするか、考えてありますか?」

「はい。前世でもちょくちょくあったと思いますが、物産展をやるのです」

「あちこちの食べ物を一箇所に集めて、市民に実際に食べてもらうのですね。でも亳だけでは量が集まらないのではないですか?」

「はい。商の国全体から集めるのです」

「それはいいですね。僻地にある小さい肆の食べ物も、これで知ってもらえます。簡尤には話したのですか?」

「もちろん話しましたが、陛下が喪中なのにそのような催しを国が主催すると不道徳な国だと思われるだろうと言われました」

「ああ‥‥」


子履はまたかくっとうなだれます。


「この世界は三年の喪に厳しすぎます」

「あたしもそう思います」


今度はあたしが子履を慰める番になっていました。子履の頭を撫でます。逆にあたしが撫でられたいですよ。簡尤にこれを言われたのはあたしなんですから。せっかくいい案が思いついたのに。


「政治って難しいですね」


そうあたしがぼやくと子履は‥‥「街の外れにある肆同士で横のつながりを作るのはどうでしょうか?」と言ってきました。


「横のつながりですか?」

「はい。それらの肆は中心部から遠いばかりか、お互いにも距離があって仲良くする機会もないでしょう。下手するとお互いのことを知らないかもしれません。定期的に集まりを作って情報交換をさせるのです。お互いの肆の場所が記された地図をそれぞれの店内に張ってもらうのも有効でしょう」

「なるほど。明日、それを提案してみます」


でもあたしは物産展のほうがいいと思うけどな。子履の三年の喪が明けたらお祭りも再開になりますし、そこで物産展をやりたいと思うのでした。

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