第262話 逆鱗と秘密の扉

「‥劉累りゅうるい様は、なんとも思わないのですか?もし革命が起きるとなれば、ご自身が仕えていた夏の国が滅んでしまいます」

「わしは竜と触れ合ううちに多くを学んだ。今の世の中は、まさに竜の嫌うものだ。わしにも思うところはあるが、の目指していた世はもはや損なわれた。今、それを実現できるのはお前の想い人しかいない。禹を敬うために滅びを願うのも、また勇気だ。どうして禹の末裔を拝せられようか」


そして、「孔甲こうこうの代にを建て直せなかったわしの責任でもある」と付け加えました。


「‥革命なんてそんなこと、様が許すはずないです‥」

「ふむ‥まあ、よい。わしはそこまで干渉はしない」


そして、劉累はゆっくりと、薄い霧に包まれた断崖に向かって歩き出します。


伊摯いしよ、あの扉は見えるか?」

「え?」


見上げると‥‥断崖には、月の光に照らされて、巨大な黒い扉がありました。とてつもなく高い扉でした。開けるにしても、あれだけ大きければどうやって開けるのか分かりません。


「あの扉は‥劉歌りゅうか様がご存知かもしれません」

「いいや、知らない。あれは新しい時代を創る人にしか見えない扉だ。よって、わしにも見えない」

「え‥‥」


こんなに大きい扉なのに、劉累、そして劉歌にも見えないのですか?あたしだけが見える?

確かに、あたしは扉のずっと上まで見上げていたのに、当の扉を紹介した劉累は首を動かしてすらしていません。

背中がぶるっと震えてしまいます。


「‥‥あの扉の先には何があるのですか?」

「わしにも知らぬ。だが、あの扉を造った人と話したことはある。あの扉の向こうに、この世界の真実が隠されている」

「世界の真実‥‥‥‥あの扉を造ったのは誰ですか?」

広萌こうぼう真人だ」


‥‥また、その名前を聞きました。思えばこの旅が始まってから、竜と広萌真人の話をしました。何度も広萌真人の単語を聞きました。

あたしのこの旅に、広萌真人はそんなに深く関わっているのでしょうか。


ふと、後ろから足音が聞こえます。任仲虺じんちゅうきです。


さん、何をなさっているのですか?」

「あ‥仲虺ちゅうき様、申し訳ありません」

「ちょうどよい、お前にあの扉は見えるか?」


劉累は、まるで任仲虺と以前に会ったことがあるかのように、自己紹介もせず馴れ馴れしく崖を指差します。


「‥あの黒い扉のことですか?」

「おお、黒いのか」


任仲虺にもあの扉が見えるのですか。‥‥任仲虺もまた、『新しい時代を創る人』ですか・新しい時代とは一体‥?

と、任仲虺があたしに耳打ちします。


「あの老人はどなたですか?」

「劉累様だぞうです」

「今は冗談を言える場合ではないでしょう」

「冗談だったら最初から言わないですよ」


任仲虺はちらちらと劉累を見ます。あたしと同じく、警戒しているように眉をひそめています。


「おお、そうだ、本題を忘れていた」


劉累は、何歩か遠ざかってしまったあたしたちのほうへ歩いてきて、そして一枚の鱗を差し出してきます。


「え、それって‥」


その鱗は金色にも銀色にも輝く、不思議な色をしていました。あたしは本物の逆鱗げきりんを見たことはありませんが、これは特別な鱗だと主張しているように見えました。


「これが‥逆鱗ですか?」

「そうだ。お前はこれが欲しかったのだろう」

「‥それも広萌真人から聞いたのですか?」

「うむ」


あたしは驚くほど落ち着いていました。あれもこれも広萌真人なら、次はきっとこう出ると思っていました。それを確認し終わったあと、あたしはそれを掲げて「ありがたく頂戴いたします」と頭を下げました。

すぐに任仲虺が「本物ですか?」と覗き込んできます。それを手に持って‥光が偽物でないことを確かめたのでしょうか、「本物ですね‥」と短く言ってから、劉累に拝をします。


「どなたかは存じ上げませんが、このような貴重なものをくださりありがとうございます」

「うむ、結構である」


それで劉累がぷいっとあたしたちに背を向けたので、任仲虺は「いろいろ聞きたいことはありますが、後でゆっくり話しましょう」と小声で言って廟へ向かいます。あたしもそれを追いかけようとしますが、後ろから呼び止められます。


「おっと、言い忘れた。伊摯よ」

「は、はい」

「お前は遠い将来、想い人の孫に殺されるだろう」


えっ?

あたしが子履しりの孫に?いきなりそんなこと言われても‥‥分かりません。すぐには理解できません。


「運命を変えることは出来ない。だが‥‥信念を持ち、それを貫け。守りたいものに恥じない生き方をしろ」


言いたいことは分かりますが‥‥子履の孫に殺される。そのことばかりで頭がくるくるしてしまいます。劉累はあたしの肩をぽんと叩き、それから再びあたしに背を向けて、霧の中に消えます。


「伊摯様、逆鱗を入手なさったとか!」


ぼんやりしていると、劉歌が任仲虺と一緒に駆けつけてきました。


「あ、はい、これが逆鱗です」

「‥‥わあ、本物は初めて見ました。逆鱗は普通の鱗とこすりつけ合うことが多く、角が丸くなりやすいのです。よく磨かれているので光ることもあるそうです。すごいです」


そうやってはしゃいている劉歌を見て、あたしは思い出します。崖を指差して、劉歌に尋ねます。


「あそこに大きくて黒い扉は見えますか?」

「‥‥見えません。何をおっしゃっているのでしょうか、ただの崖に見えます」


あたしは改めてそこを見ますが、やっぱりどう見ても黒い扉があるように見えます。‥‥今は夜でしたね。月の光があるとはいえ、人によって見え方が違うとかのたぐいかもしれません。あたしはそうやって自分を納得させます。


「早く戻りましょう、姒臾じき様と‥‥確か、伊摯様のお知り合いで盗賊と戦っている方‥‥」

嬀穣きじょう様です」

「それです、嬀穣様のためにも早く」

「そうですね!」


逆鱗は手に入れましたし、劉累も消えましたし。姒臾も巻き込んで、この開けた草原の入り口へ走ります。


「‥‥えっ?」思わず声に出してしまうくらいには、異様な光景が広がっていました。盗賊2人が地面に倒れて気絶しています。そして、嬀穣の姿が見えません。絶対またどこかに隠れています。


「嬀穣様、戻りますよ?嬀穣様‥‥」

「‥‥気になりますが、このまま帰りましょう」

「えっ?」

「あの木の幹に『私は気にせず、先に帰ってください』と書いてあります」


任仲虺が指差した木の幹には確かにそう書いてあります。後ろ髪を引かれる思いですが、あたしたちは結局そのまま亭に戻ってしまいました。

亭に戻る頃にはすでに東の空がわずかに明るみ始めていました。ついでに後宮にも使いを出します。


◆ ◆ ◆


あたしが最初に後宮に渡した手紙に劉乂りゅうがいが何を書いていたか分かりませんが相当至急であることを強調していたらしく、「可能な限り早く準備しましたが、あとは待つしか出来ません。次は3日後かもしれません‥‥」とあくびをしながら寝ようとしていた任仲虺の予想に反して、その午前のうちに後宮からの使いが来ました。午後の始まりと同時に謁見をするので大広間に来て欲しいという内容でした。

あたし、姒臾、任仲虺の3人は、逆鱗を持って大広間のある宮殿に向かいます。


あたしたちが逆鱗を手に入れたことは、後宮に報告したはずです。この逆鱗を渡せば、子履を返してくれるかもしれません。当たってほしくないですが、追加の要求があるかもしれません。でも今は、要求を通してもらうことに集中しましょう。あたしは逆鱗の入った小箱を大切に抱えながら、そう決心するのでした。

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