第263話 夏后履癸に感謝しました

大広間に入ってきたあたしたちは、夏后履癸かこうりきの前で丁寧に稽首けいしゅ(※九拝きゅうはいの1つで、天子に対する礼。土下座に近く、頭を地面につくまで深く下げる)します。あれもこれもすべて子履しりを返してもらうため。そのために何でもします。

「顔をあげよ」と言われて、上半身を起こします。あたしは玉座‥‥きざはしの上にあるベッドをじっと見つめます。夏后履癸、そして隣には妺喜ばっきが座っています。学園の同級生で、仲良くしていたあの妺喜が、あたしを冷たい目で見下ろしていました。


逆鱗げきりんが見つかったと聞いたが、出してくれ」

「はい」


夏后履癸の命令で、あたしは宝箱を侍從に渡します。侍從は近くに控えていた何人かの男にそれを見せます。何人かの男が箱を開けて少し調べてから、侍從はそれを持って階段を上り、「本物とのことでございます」と夏后履癸に手渡します。


「見ろ、妺喜、この逆鱗は本物らしいぞ」

「ほお、素晴らしいものじゃ」

「さすが妺喜の言っていたとおりだ、まったく素晴らしい」


夏后履癸も妺喜も、その貴重な逆鱗を汚い手で磨いたり、撫でたり、明かりにかざしたりして楽しんでいます。


「こうすると一番輝くぞ」

「どれどれ、おお、本当ではないか」


‥‥うん、少々逆鱗で遊び過ぎではないでしょうか。なかなか本題に入ってくれません。なんなら、逆鱗で一通り楽しんだまま散会になってしまいそうで怖いです。


「あ、あの‥‥主人の話でございますが」

「‥‥ああ、そうだったな、釣台ちょうだいにぶちこんでたゴミのことか」


夏后履癸は思い出したかのように、鼻をほじりながら適当に答えます。そのあまりの軽さにむすっときます。


「おい、連れてこい」


え?

子履、確か夏台かだいにいましたよね。夏台からここまで距離があるはずです。それなのに、あたしがこうして要求通りの品を持ってきて許しを請うよりも前からここへ連れてきていたということですか?

そんなことより今は子履です。あたしがこの一週間、せつ陽城ようじょう崇山すうざんを走り回っていたのは、子履たった一人を返してもらうためだけです。その結果が、ついにここに。


‥‥何やら、変なにおいがします。‥ゲロ‥それらが混じり合ったにおいです。及隶きゅうたいが、子履は相当に傷めつけられている、一週間以内に及隶の薬を使わないと死ぬ、と言っていたことをにわかに思い出しました。嫌な予感がします。

異臭がだんだん強くなります。あたしはおそるおそる振り返ります。


この小説で書けるような表現を超えた、悍ましい何かでした。

任仲虺じんちゅうきも、姒臾じきも、体を震わせてただそれだけを凝視していました。


‥子履。

それは間違いなく、子履でした。


様!!」


あたしは思わず走り寄って、台車に乗せられていたその『物体』を抱き締めました。嗚咽が漏れます。知らないうちに叫んでいます。手足のないその人形は、ぴくともしません。


ごめんね。

ごめんね、子履。

商丘しょうきゅうから出発する時、あたしがもっと強く引き止めていたらこんなことにはならなかった。

こんなことになると分かっていたら、物産展を中止してでも子履を追いかけていた。


「ごめん‥ごめんね。ごめんね、ごめん、ごめんなさい‥‥!!」


帰ろうね。

一緒に商丘まで帰ろうね。

及隶が薬を作って待ってくれているから。

間に合う?‥‥間に合わせてみせる。


息が整い始めた頃、後ろから、柔らかいものを何度も叩く音と笑い声が聞こえました。


「はーっはっはっは、愉快だ!妺喜があまりにうるさく言うからあらかじめ釣台から連れてきていただけのことはある。おかげで面白いものを見せてもらったぞ!豚のうんちまみれの『ケダモノ』を抱きやがった!自分から進んで全身汚物まみれになりやかった!ほら、抱いた奴の服がめためたに汚れているぞ。商には愚か者しかおらんのか!はーっはっは、愉快だ!」

「じゃろう?陛下もそう思うじゃろう?商には頭のおかしい奴しかおらんのじゃ。遊ぶのは楽しいじゃろう?」


嘘だ。

陛下はともかく‥‥妺喜も?

妺喜も、この状況を笑っている?

あたしとあんなに楽しく遊んでいた妺喜が、この状況を笑っている?


「‥‥っ、あっ‥」


なにか声を出そうとするあたしの足首が、後ろからつねられます。この角度は任仲虺でしょう。

小声で囁いてきます。


「何か粗相をするとあなたまで殺されます。この謁見はまだ終わっていません」


あたしの腕は震えます。汚物が、振動で飛び散ります。‥‥その通りです。でも、どうしたら。どうしたら、あたしの顔を一切見せずにこの場から逃げ出せるのでしょうか。そのようなことは不可能です。‥でも、やらなければいけない。やるんだ、あたし。こんなにぼろぼろになった子履のために、あたしは何にだってなる。どうすればいい。どうすればいい。


「おぬしの感動の再会ごっこはユーモアがあってなかなか楽しませてもらったのじゃ。陛下に感謝するのじゃ、ははは」


‥‥‥‥そうですね。せっかく子履を返してもらったのですから、夏后履癸には感謝しなければいけません。はい。感謝しなければいけません。感謝です。感謝するのです。大いに感謝するのです。

感謝の気持でいっぱいになると自然に笑顔になるものです。あたしの顔、笑ってるかな。鏡がないと怖いですが‥いえ、感謝しているのであれば、きっと大丈夫でしょう。


自分の思う満面の笑顔を、しっかりと夏后履癸に見せつけます。

夏后履癸には感謝してもしきれません。重罪を犯して釣台に閉じ込められた子履を、こうして許してくださったのですから。感謝。感謝。感謝。

あたしは地面に正座したまま、深く頭を下げて感謝します。


「主人を許してくださり、厚く感謝申し上げます」


あたしは何を言っているんだ?あんなにされて感謝なんて。いえ、感謝です。感謝するしかありません。感謝です。感謝。感謝。

妺喜はぽーんと何かを投げつけます。ちょうどそれが、あたしのすぐ前へ転がってきます。黒い玉です。がんでしょう。


「ほれ、薬じゃ。それを飲ませれば、そこの『粗大ゴミ』の体が完全に元に戻って、全部なかったことになるぞ。ははは」

「そんな薬がこの世にあるのか」

「さあ、どうじゃろうな。ははは」

「妺喜もなかなか楽しませてくれるな、ははは」


感謝です。妺喜が薬をくれたので感謝です。こんなので治るわけねえだろ。いいえ、治ると言ってくださったのですから治るでしょう。感謝です。大感謝です。全身を使って感謝の意を表します。罪を許してもらって感謝しただけでなく、薬までもらって、なんとアフターケアの厚いことでしょう。こんな素晴らしい待遇は初めて聞きました。まさか商をそんな丁寧に扱ってもらえるとは思えませんでした。今のあたしはとても嬉しいです。幸せです。これはひとえに夏后履癸と妺喜のおかげです。感謝しましょう。圧倒的感謝です。

あたしはその丸を高く掲げ、「ありがたく頂戴いたします」と頭を下げます。感謝しました。感謝です。感謝。感謝。感謝。この幸せな気持ちは、死んでも表現しきれません。


今、あたしはにこにこ笑っていますか?笑っているに決まっています。なぜならこれだけ夏后履癸に感謝しているのですから。


「そうじゃ、おぬしとは学園の時のよしみもある。せっかくじゃから、ちょっとした余興を用意しておいた」

「余興ですか?」


余興って何ですか?いえ、余興まで用意してくださった妺喜に感謝です。「おーい、例のものを持って来い」と夏后履癸が言って少しすると、何やらおいしそうな匂いがします。

まもなく、それがあたしの前まで運ばれています。


肉です。

ステーキのような肉です。食べやすいように、一口サイズで何個か皿の上に転がっています。お箸までおいてあります。いかにもおいしそうな匂いですが、ほぼ香草のものでしょう。


「その肉は何の肉か、あててみるのじゃ」


体の一部を切り取られた『物体』のすぐそばで肉を食べろと?いいえ、感謝です。感謝です。感謝です。感謝の気持ちです。

あたしはそれを、嬉しそうに、楽しそうに、ぱくっと口に入れます。


この味。あたしは前世でも現世でも『それ』を食べたことはありませんが、前世の机上でその肉の特徴を聞いたことはあります。

その理論通りであれば、このような味や舌触りになるということは、少し時間はかかりましたが分かりました。


「人間の腕、特に肘付近の部位を使ったものですね」

「ほう、正解じゃ、大正解じゃ、ははは」

「妺喜よ、ちなみにあれは誰の肉じゃ?」

「何を言っておる、決まっているじゃろう、そこにある『モノ』じゃ」

「なるほど、あれか、あれか、なかなか楽しそうだな、ははは」


妺喜も夏后履癸も、あたしの方向を指さして笑っています。

感謝です。主人の罪を許してもらっただけでなく、これだけおいしい肉をごちそうしてもらって感謝です。夏后履癸はなんという優しい帝でしょう。これだけ優しければ、人民も夏后履癸を慕っているに違いありません。今、あたしはとても夏后履癸に感謝しています。感謝してもしきれません。ああ、商は夏后履癸のもとにお仕えすることが出来て、なんと幸せなのでしょう。


「どうじゃ、味は?」

「はい、大変素晴らしい味付けがされております」

「もっと食べたいか?」

「‥‥はい、この『肉』を商丘まで持ち帰り、あたし好みの味付けにして家臣たちに振る舞いたく思います」

「その味付け、ぜひ我らかの料理人にも教えてほしいな」(※この世界では刑罰以外にも人食が行われているようである)

「いえ、肉は『直前まで生きていて新鮮である』ほうがとてもおいしいのです。商の家臣たちには、その権利があるはずです」

「お前は名だたる料理人とも聞いている、少し残念だな」


あたしは必死で言葉を選びます。

なぜならこのせっかくもらった素晴らしい『肉』を、ぜひとも新鮮なまま商丘に持って帰りたいからです。

こんな素晴らしい、なかなか手に入らないような『肉』を授けてくださった夏后履癸には感謝です。

どこの宝物よりも素晴らしいものを賜って、感謝してもしきれません。


夏后履癸と妺喜が、また「商には馬鹿しかいないな」と笑っています。


感謝です。

罪を犯したにかかわらず、笑顔であたしたちに応対してくれている夏帝に感謝です。

こうして主人を生きたまま返してくれて、感謝です。感謝。感謝。感謝。


許さない。

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