第264話 妺喜が会いに来ました
その大広間から退出して亭に戻るまでのことは、全く覚えていません。
気がついたら、亭の部屋の一部を衝立で隠して、
大広間にいたと思ったら、次の瞬間にはこうして体を洗っていた‥‥が、あたしの感覚です。
瞬間移動の魔法かと錯覚してしまうくらい、記憶がきれいに吹っ飛んでいます。
ただ一つだけ言えることは、
「
任仲虺が衝立の向こう側から声をかけてきました。
「誰ですか?」
「夏の
「帰ってもらってください」
あたしはひたすら無心で、子履の体を洗います。ただでさえ子履には糞尿のにおいがこびりついているというのに。
すると任仲虺はそっと衝立をまわって、あたしの隣で耳打ちします。
「相手はこの
「‥‥‥‥会います」
どうせ会うしかないんでしょうね。あたしは子履が溺れないよう体を拭いて、いったんたらいから出してタオルの上に寝かせ、もう1枚のタオルをかぶせます。子履はぬいぐるみのようにぴくとも動きませんし、手足もなく、ただ枕のようなシンプルな形状のクッションか何かを洗っているような感覚でした。
「早くしてください、もうお待ちです」
考える余裕もないということでしょうか。あたしは無言でうなずいて、そのまま、衝立の向こうにあるテーブルの椅子に腰掛けます。
◆ ◆ ◆
部屋いっぱいに非常識なにおいはしますが、誰も突っ込みません。みんな事情は分かっています。
子履の体を洗っている部屋に男を置くわけにはいかないので
あたしは自分の顔が妺喜から見えないよう、頑張ってうつむきます。ひたすら下を見ます。妺喜もそれを察したようで、少しの沈黙のあと、「げ、元気か‥‥?」と尋ねてきます。
「はい!」
自然と強い声が出てしまいます。再び少しの沈黙ののち、妺喜は決心したように話しました。
「‥大広間で渡した
「摯さん、確か、あれは‥」
「捨てました」
あたしは鼻息だけで笑いました。どうしようもありません。腕も脚も切り落とされた人間に、あんなちっぽけな薬が役に立つと本気で思っているのなら、それはもはや人間の思考ではありません。自然と涙が溢れます。
あたし、薬を捨てましたよ。妺喜も呆れているでしょうね。妺喜はあれで治ると本気で思っているようですから。いや、治らないと思って冷やかしのつもりで出しているんでしょうか。それともあれは毒でしょうか。あれで治ると思い込んで飲ませたら実は毒で、子履が死んでしまうのを悲しむあたしを見て楽しもうとしているのでしょうか‥‥きっとそうですね。学園時代を考えると信じたくありませんが、先程の大広間での所業を考えると、もうそうとしか考えられません。
こん、と妺喜がテーブルの上に硬いものを置きます。ちらりと見てみると‥真っ黒なボール。さっきと同じサイズ。大広間で投げつけられたのと同じ薬のようでした。
「‥ここに薬の予備がある」
ああ、妺喜はそこまでして子履に毒を飲ませたいのですね。今すぐ死んでほしいんですね。予備なんて念入りに作ってしまって。用意周到ですね。
「これを必ず商伯に飲ませるのじゃ。そうすれば助かるのじゃ‥」
妺喜の声のトーンが落ちてくるのが分かります。同情を誘っているのでしょう。
「用はそれだけですか?」
「もうひとつある。
それも信じられない情報でした。羊玄は学園時代、仲良くとまではいえないものの話したことがあり、悪いことを言うような人には見えませんでした。きっと‥きっと、妺喜が嘘をついているのですね。きっとそうですね。
「じゃから、今夜中に急いでここから逃げるのじゃ。東ではなく南を目指すのじゃ。この夏の國は横に細長い。とにかく夏から早く脱出するのじゃ。馬車はわらわが用意するし、追手もわらわが何とかするから、おぬしたちは急いで荷物をまとめるのじゃ」
信じられません。妺喜がそこまで必死で言うからには、羊玄はあたしたちを助けてくれる存在なんでしょうね。もっとも羊玄にすら治せるとは思いませんが。この世界に治癒の魔法なんで存在しないんですし。
「それだけですか?」
「‥‥この薬は絶対に飲ませるのじゃ」
妺喜が部屋から出ていったのをドアの音で確認すると、あたしはいきり立って、その黒いボールを地面に投げ打ちつけます。すぐに任仲虺が後ろからあたしの腕を捕まえます。
「摯さん。竜に言われたことを覚えていますか」
あたしは荒い息と嗚咽で返事しました。
「竜は『目の前にあるものを信じろ』とおっしゃっていました。それではないでしょうか?」
「そんな漠然としたものは信じないです。あれは毒です」
「毒ならわざわざ人目を盗んで薬を渡しに来ませんよ。羊右相が
「黙ってください。羊右相は履様を助けようとしているんじゃないですか?それを妺喜が妨害しようと‥」
「あなたは、羊右相が助けてくれると本気で思っているのですか?相手は夏の重臣であり、夏の利益のみを考えて動きます。もし仮に履さんを治す方法があったとして、あれだけのことをされた履さんがおとなしく夏に従うとは思わないでしょう。殺すと言い出すのは自然なことです」
妺喜だけでなく任仲虺も、子履に毒を飲ませようとしているんじゃないでしょうか。あたしは任仲虺に背を向けます。
◆ ◆ ◆
夜になったら、本当に馬車が来ました。使用人が2人ほどやってきて、ご丁寧に荷物を運んでくれます。心なしか、2人とも目がうつろになっているように見えました。洗脳でもされているんでしょうか。まさかね。
亭を出ると、本当にそこに馬車がありました。あまり目立たないような色やサイズで、質素な作りでした。
「急いでここを出るのじゃ、衛兵はわらわの魔法で眠らせておるが、もたもたしているとすぐ目を覚ましてしまうのじゃ」
黒いマントのようなもので身を隠している妺喜が、あたしたちを急かしだてます。うん、妺喜のどこを信じればいいんですか。
「早く乗りますよ、摯さん」
2人用の長椅子が向かい合ったような馬車に、姒臾、任仲虺が先に乗りますが、あたしがなかなか乗らないのを見ると任仲虺は下りてきて、あたしの背中を押します。
「早く乗りますよ」
「羊玄様にお会いしないと‥」
「何をおっしゃっているのですか。早くしないと殺されます」
「でも、履様を治してもらわないと‥」
ここまできて、妺喜が心配そうに声をかけてきます。
「のう‥さっき渡した薬はあるのか?」
「あれなら‥すりつぶして捨てました」
「摯さん」
任仲虺までがあたしの手首を掴みます。それから妺喜に謝罪します。
「申し訳ありません、せっかくご用意くださったのに‥」
「‥分かっておったのじゃ」
妺喜は目を伏せます。あれだけのことをしたという自覚は一応あるようです。
そして、任仲虺に渡します。
黒いボールを。性懲りもなく。
「‥‥これは3個目ですか?」
その任仲虺の質問に、妺喜は無言で頷きます。
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