第175話 琬琰との別れ

この世界では、たとえ夫婦がお互いを愛し合っていても、子供ができなければ離婚しなければいけません。子孫を残し、先祖の血を受け継ぐことが最重要視されています。えんえんが夏后履癸のもとにきてからすでに10年は経過しています。そろそろ離婚してもおかしくないを通り越して、離婚しないとやばいという状態です。

しかし思いついたところで、夏后履癸かこうりきは琬琰を愛しています。ちょっとやそっとでは動じないでしょう。そう考えた妺喜ばっきは、使用人に命じて手紙を魯積ろせきという人に渡させました。の家来の1人でちょくちょく朝廷にも顔を出しますが、正義感の強い人として有名でした。正義感が強いほど扱いやすいのです。


自分の屋敷で手紙を読んだ魯積は絶句しました。翌週の朝廷で、魯積は自分の発言の番が来ると早速指摘しました。


「陛下!」

「うるさい、またお前か。お前はいつも声が大きい」

「陛下の両隣におられる女との間に子供がいないという噂を聞きつけました。どういうつもりで子供も作れない女を10年もきさきにしているのですか?」


それを聞くと夏后履癸は一瞬動きを止めたあとで、怒鳴りつけるように言いました。


「だから何だというのだ。わしにはもう淳維じゅんいがいるだろう」

「淳維殿下はきさき(※正室)との子供でございます。目的もなくきさきをそばに置くようでは、后に咎められても仕方ないですぞ」

「うるさい!お前は今、我が妃を中傷した。機嫌が悪い。帰るぞ」


この世界の人々は正室だけでなく側室を持つこともできますが、側室はあくまで子供を増やすためだけに設けられているので、この世界の人達に一夫多妻制という自覚はありません。あくまで愛する女は后ただ1人であり、妃は遊びでしかありません。

魯積の指摘がよっぽと図星だったのか夏后履癸は朝廷を無理やり切り上げて後宮に帰りますが、そこで出迎えた后が夏后履癸を呼び止めます。


「あなた」

「ああ、お前か」

「朝廷の話は聞きましたよ。私というものがありながら琬琰を10年以上側にはべらせ、しかも子供がいないというのはどういうことですか?」

「今、わしは機嫌が悪い。後にしてくれ」

「今答えないと、私は今夜にも実家に帰らせていただきます!」


琬琰に両手を引いてもらいながら歩いていた夏后履癸は立ち止まり、2人から手を離して振り返ります。后をめとると、その后の親族の身分も自動的に上がります。その親族、特に叔父(※后の父の弟)が何度も賄賂を渡してくれることを思い出したのでしょう。


「それは困る。あと1年だ、あと1年待ってくれ」

「なりません。私はもう十分我慢しました。今ここで返事できないのなら、私は今すぐ帰ります」

「わかった、わかった、わかった。わしも腹をくぐる。だが別れの時間も必要だ。1日預けてくれ」

「わかりました。明日の夕方より後にその2人の姿が見えたら、私はその場で帰らせていただきます」


后はそう言い捨てて去りました。夏后履癸はしばらくのあいだ、琬琰の2人に背中を撫でられながら、がくんとこうべをたれていました。


◆ ◆ ◆


ここ10年、夏后履癸はずっと琬琰につきっきりでした。后と一緒にいる時間はほとんどありませんでした。后も特に夏后履癸を愛しているわけではないでしょう。しかし后という権力はとても強く、后の親を使えば王に匹敵することもあります。とはいえ王の親や親戚のほうが偉いのですが、父である夏后はつが死んでしまった今、期待できるほどの権力はないでしょう。


夏后履癸は使用人に命じて、家宝を持ってこさせます。持ってきた玉手箱の中に入っていたのは、苕華玉ちょうかぎょくという宝物でした。これは五帝の1人である帝ぎょうが帝しゅんに禅譲するときに贈ったもので、以降代々の王に引き継がれ、政権の象徴となっていたものです。日本の天皇の三種の神器のようなものです。これは水晶玉が2つくっついているような形状をしています(※実際の図や形状は一切不明)。片方の玉をちょう、もう片方の玉をと呼びます。


夏后履癸はまた彫刻師を呼び、琬琰の目の前で、それぞれの名前を彫らせました。苕には琬、華には琰の字を彫りました。


「いいのですか?代々受け継がれてきた宝物にこのようなことをして」


琬が不安そうに尋ねますが、夏后履癸はテーブルの上の酒を一気飲みしてから、隣りに座っている琬に視線を向けることなく、ただ彫刻師の仕事のさまを見ながらつぶやくように言いました。


「わしにとってお前らは、親と同じくらい大切だったのだ」


2人は少し困惑しながらも、やがてほほえみを持って夏后履癸の背中をなでます。


「私たちも、陛下と別れるのは寂しいです」

「うむ」


3人はその最後の夜を飲み明かしました。10年間ともに過ごした思い出、語りきれないものはいくらでもあるものです。


翌朝、夏后履癸は2人のために馬車を用意しました。2人が馬車に乗り込んで、次に夏后履癸が乗り込もうとした時に、2人は止めました。


「私たちはこれから平民に身を落としますが、王の妃だったことが周囲に知られると気を使わせてしまいます」

「そうか‥‥それがお前らの望みなら。だがたまには会いに行くぞ」

「それもおよしなさいませ。これがばれたらまた后と別れることになります。これを最後の別れにしましょう」


夏后履癸はしばらく黙った後、急に涙をぼろぼろ流します。それを琰が出してきたハンカチで拭くと、夏后履癸は「そうだ」と言って、使用人の持っていた苕華玉の入った箱を2人に渡します。


「これをわしだと思って持っていってくれ」

「えっ」


驚いたのは琬琰だけでなく、その場に控えていた使用人たちもでした。琬琰より先に、顔を青くした使用人たちが何人か頭を下げて、夏后履癸に言います。


「お言葉ですが、それを所持していることは、陛下が五帝から代々伝わってきた正統な王であることを証明するものです。個人に渡すのはいかがかと思います」

「こんな魔力もない玉に価値なんてないだろう」


ここに家臣でもいたら全力で止めようとする人たちもいるでしょうが、使用人たちの身分はいやしく、とても王様にそこまで言えるような雰囲気はありませんでした。琬も「遠慮します、それはあなたが持ってください」と言いますが、夏后履癸は「よい、よい。さそ美しい玉だろう」と言って2人の膝に置いて早々にドアを閉めてしまいます。


馬車は西に向かっていきました。この斟鄩しんしんの近くにらくという地があり、斟鄩には劣りますが繁栄した町です(※洛は『竹書紀年ちくしょきねん』にあった地名。詳細不明。本作では斟鄩の西にある地名として扱う/桀受二女,無子,刻其名于苕華之玉,苕是琬,華是琰,而棄其元妃于洛)。そこならきっと2人も、これまでのようにはいかなくても、そこそこの生活水準で幸せに生きることができるでしょう。夏后履癸はその馬車が視界から見えなくなるまで、ひたすらそれを願っていました。


◆ ◆ ◆


しかしここで夏后履癸が苕華玉を失ったという噂は、使用人を通して、後宮の中でまことしやかに囁かれるようになりました。妺喜ももちろんそれを耳に入れてしまいました。苕華玉のことまでは予定になかったものの、いいことを聞いたとうなずいていました。

妺喜はその3日後、夏后履癸がまだ部屋でぼんやりしながら2人を想っているという使用人の噂を知って、内密に魯積を呼ばせました。

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