第174話 羊玄の謹慎

「おい、しんか。早かったな。仕事はどうした」

「父上がお辞めになると聞き、部下に任せて帰ってまいりました」


ドアをノックして羊玄ようげんの書斎に入った羊辛ようしんの言葉に、羊玄は椅子に座って「まあ、そうだろうな」とひげをいじりながらつぶやきます。


「わしは辞めるわけではない。謹慎じゃ。5年後にまた戻ってこよう」

「父上、五年後のはどうなっていると思いますか」

「またその話か。先程、百官から浴びるほど聞いてきたよ。あいつらは關龍逢かんりゅうほうや辛を低く評価している。わしが死んだ後どうするつもりやら」


羊玄は昔から変わらず、一度決めたことは覆しません。そのことは、どんな家来よりも羊辛のほうがよく分かっています。羊辛も、羊玄は斟鄩しんしんに留まるべきだと考えています。しかし、羊玄のことをよくわかっているだけに、何も言うことができません。家臣たちに申し訳ないと、羊辛は心の中で謝るのでした。


「父上」

「なんじゃ?」

「酒でも飲みませんか」

「わしは謹慎の身じゃ。酒は飲めぬ。水にしよう」

「では私も」


日もこれから落ちるという頃、おやつの時間にその屋敷の小さい食堂には羊玄と羊辛の姿がありました。お互い向かい合って、テーブルの上にはただの水が入った杯が2つあります。2人はそれをぶつけ合って乾杯し飲みます。


「わしは明日にはへ出立する。お前と会えるのも明日の朝が最後だ」

「とんでもない。私も、毎年正月には巴に参ります」

「わしは失政という罪があるのに、どうして楽しめようか。謹慎の時にそんなことをしたら、反省していないと思われるだろう。手紙くらいなら出してくれ」

「正月に親と会えないことは、すなわち罪です。父上は息子にも罪を犯せとおっしゃるのでしょうか」


羊玄はふふっと笑って水を一回飲み干してから、使用人の持ってきた代わりの杯を自分の手前に動かします。


「わかった。年に一度、一日だけ来い。それ以上はなしだ」

「はい」


これで羊玄と面会するチャンスが少しでもできれば、羊玄なきあとの夏の現状を丹念に説明し、謹慎の期間を短くできるだろうと羊辛は踏みました。おそらく2年後、3年後には羊玄も斟鄩の政治が心配になっているはずです。それを利用してなんとかうまいこと誘えないかと、羊辛は水を飲み羊玄をちらちらと見ながら考えていました。


「わしの顔に何かついておるのか?」

「いえ。夏のこれからについて考えておりました」

「辛は自分の腕前に自信がないのか。安心しろ。困った時は關龍逢が助けてくれる。あいつはわしに負けず劣らずの腕前を持っているから、きっと頼りになるだろう」


そうまで言った羊玄は、自分の杯をテーブルにことんと置いてから、また続けます。


「わしがいなくなったら夏は滅ぶというのか?わしも死ぬにはまだ少し若いが、いつまでも生きていけるわけではない。わしがいなくても夏は栄えることを見せてみろ。わしを安心させてくれ」


羊辛はこくりとつばを飲み込んでからうなずき、「はい」と返事します。


翌朝、羊玄は巴の国に向かって旅立ちました。羊辛はその列が地平線から見えなくなるまで、ずっと草原の道に立って、眺め続けていました。


◆ ◆ ◆


例の竜の襲撃騒動のときから羊玄が自分の政務に疑念を持っていたことも、また妺喜ばっきは聞いていました。やや遠回りになりましたし、和弇かかんの起こした事件がきっかけになるとも限らなかったのですが、羊玄が巴へ向かって出発したと側近から聞いた妺喜は、「そうか、寂しくなるな」と言いながらも口角は上がっていました。

窓付きの部屋で、妺喜は窓近くの丸いテーブルの椅子に座り、紅茶をすすりながら空を見つめていました。


羊玄は殺すとまではいけなくても、斟鄩から追い出しました。5年という期間は、夏を破壊するには十分ですが、そのあとに羊玄が帰ってきて立て直そうとすることを考えると、それほど余裕はないかもしれません。さてこれからどうしましょう。大体の計画はすでに手の中にあります。


夏を破壊するには、まず夏后履癸かこうりきにとりつかなければいけません。そうすれば夏后履癸を洗脳し、やりたい放題できます。

しかし、妺喜が朝廷や食事で夏后履癸に近づくことができないのには、羊玄以外にも2つの理由がありました。1つは、夏后履癸はまだえんえんという2人の女を愛しているということです。もう1つは、琬琰もただのきさき(※側室)にすぎず、正式なきさき(※正室)が別にいるからです。夏后履癸のそばにべったりくっつくためには、この3人全員を殺さなければいけません。


夏后履癸と后の間で、特に親しいという話は聞きません。優先順位としては琬琰が先です。琬琰も妺喜自身と同じく、国を滅ぼされて夏后履癸の妃となった立場です。シンパシーはあるにはありますが、琬琰は夏后履癸に呆れつつも、少しは気に入っていたようです。男女として愛しているというよりは、母性かもしれません。つまり妺喜の仲間ではありません。殺すに値します。


琬・琰の姉妹は、夏后履癸が岷山みんざん氏(※現在の場所は不明)を討った時に捕虜となりました。その美しい姿を夏后履癸に見初められ、周囲の反対を押して妃にされました。2人もはじめは反発していましたが、たらしない夏后履癸を見ているうちに母性が出てしまったようです。今も夏后履癸に恨みはあるものの、まるで自分の子供のように時々頭を撫で、酌をし、夜の相手をしていました。

姉が琬、妹が琰で、1歳違いです。顔立ちがよく似ているので、周りからは双子と思われることがあります。2人はよく夏后履癸と一緒にいます。

今日も3人は仲良く、妺喜のいる後宮の庭を歩いていました。それを2階の窓から見下ろしていた妺喜は正直不快でしたが、まずは弱点を探さないと行動もできません。しかし大丈夫です。妺喜に周囲の情報を伝えてくれる人がいました。つい今も部屋のノック音がします。部屋に入ってきたのは、中年くらいの嬴華芔えいかきというおばさんでした。


「さあさあ、部屋の掃除をしますね」

「お願いするのじゃ」


妺喜はおとなしく窓際の椅子に座りました。このおばさんはベッドの毛布も交換するからです。彼女は生まれてきた赤ちゃんの世話をするために雇われましたが、清掃も担当します。


「あんたも大変ですねえ、遠方からはるばる来て」

「陛下の人徳にあてられたので、来た甲斐があったものじゃ。陛下のためなら苦労はいとわぬ」

「あらあら」


このおばさん、基本的に口が軽いです。井戸端会議のおばさんのようなもので、親子くらいに歳の離れた妺喜に何でも噂話を提供してくれます。


「あそこにいる女は誰かのう」

「ああ、陛下の妃の琬・琰さまですねえ。岷山の国からはるばる連れてこられて‥‥」


このおばさん、とにかく話が長いので、聞きたいことがあれば適当な場所で強引に切り上げなければいけません。それと、基本的に悪意はないので、聞く妺喜のほうもできるだけ悪意が伝わらないようにうまく質問しなければいけません。


「あの2人の女、どこか浮かない顔をしているのじゃか、悩みでもあるのだろうか」


本当は浮かない顔なんてしていません。淀みのない笑顔をしていますが、どうせおばさんは窓の外をよく見ていないので簡単に騙せます。


「どうだろうねえ。ああ、聞いてよ聞いてよ、あの2人はまだ子供ができてないんだよ」

「何年も付き添っているのに子供がいない?それはつらかろう」


そのあとのおばさんの長話に用はありません。紅茶を飲みながら適当にうなずきます。うなずきながら、妺喜はほほえんで、空になったカップに自ら紅茶を注いでいました。

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