第173話 和弇の変(2)

そして和弇かかんは、「私が弟の代わりになる」と高らかに宣言し、そこに居座ります。これも妺喜ばっきの指示のうちです。

もちろん他の家臣たちはたまったものではないですが、多数の兵士たちに囲まれ、和弇に「朝廷を続けましょう」と言われては何もできません。みな持ち場に戻り、朝廷を続けます。


◆ ◆ ◆


それと同時に、近くのむらを視察していた羊玄ようげんのもとに早馬が届きます。普通は事件と同時にニュースが届くことはありえないのですが、この早馬は妺喜が手配していました。

使者が羊玄や従者たちのもとへ走り、拝をします。


「申しあげます。宮中に和弇の軍がなだれ込み、和晖かき様を殺しました」

「な、なに。和弇はそのあとどうしているのだ?」

「いま、普通に朝廷を続けております」


羊玄の判断は一瞬でした。そばにいた羊辛ようしんに命令します。


しん、今すぐ斟鄩しんしんに戻り、兵を持って和弇を殺してくれ」

「はい」


その場にいた誰もがわかっていることですが、重臣、夏の大黒柱であるはずの羊玄が夏のピンチに自ら向かわないのは、これがそこまで重大でない事件であること、そこまで動揺すべき事柄でないことを示し、あとあとの混乱を予防するためでした。

本物の印綬で押した印章をもらった羊辛は、早馬で駆けます。この世界では邑と呼ばれる集落がたくさんあり、その邑の1つが大きくなって周りの邑をまとめるようになったものを国と呼びます。斟鄩の近くの邑は、斟鄩の隣町の感覚で近くにありました。そこからいくらかの農場を経て斟鄩に到着した羊辛は、兵舎に駆け込んで印象を見せます。あの名声のある羊玄の子で、しかも自身にもいい評判のある羊辛ですから、役人はほぼ顔パスだけで二百人ほどの兵士を渡しました。

羊辛はそのまま、「本日の朝廷はそろそろ終わりましょうかね」「いや、まだ検討事項がある」と、和弇とその他大勢が言い合っている宮殿の大広間にもう一度なだれ込みます。そして流れるように、一瞬で和弇を殺しました。いえ、和弇は太っていたので、一瞬で死ぬような体ではありませんでした。しかし、死ぬ間際に和弇は叫びました。


「竜を呼び出した者が夏にいる限り、斟鄩はこれからも乱れるだろう!」


そして、全身血みどろになりながら和弇はよろめくように立ち上がります。あまりの形相に、兵士たちは思わずのけぞります。和弇は一歩、二歩歩いて、そして「お前の‥父‥‥」と言い残して、崩れ落ちるように倒れます。


妺喜があらかじめ仕込んでおいていた言葉ですが、それを聞いた周囲の家臣たちは不安を覚えます。


「陛下、お騒がせしてしまい申し訳ございません」


その空気を遮るように、羊辛の声が響きます。和弇の死を遠巻きに確認した羊辛が夏后履癸かこうりきに注進しているその背後で、地面に仰向けになった和弇の死体を見ていた兵士が手に持っていた槍を握りました。和弇の体から、黒い怨念のようなものが立ち込めます。もともとこの人は評判が悪かったのですが、そこまで宮外の民衆からひどく恨まれていたわけでもありません。しかし兵士たちは気がつくと我を忘れ、槍でその体を無茶苦茶に何度も突いて、次々と細かい肉の破片を飛び散らせていました。

止めようとした周りの兵士たちも、次第に武器を構え、すでに死んでいるはずの和弇の腹を一突きし、ぶち刺し、入れては抜いて、激しい憎悪を爆発させたかのように、血と肉を次々と周りに飛び散らします。


「やめろ!」


羊辛が叫びますが、兵士たちは命令を聞きません。和弇の体がぼろぼろに引き裂かれます。あれだけぷくぷくに太っていた腹は後影もないように粉々にされ、体は2つどころか、脚や腕も砕かれ、首や頭も砕かれ、7つにも8つにもなっていました。

異常な光景に家臣たちは次々と逃げ出し、何人かの家臣は夏后履癸を連れて行こうとしました。


「やめないか!」


威厳のこもった声が大広間にとどろきます。大広間の入り口に、急病で欠席していた公孫猇こうそんこうが鎧を着て、仁王立ちしていました。その一喝で兵士たちは目を覚まし、そして目の前にあるおおよそ人とは思えない肉の塊におそれおののき、一斉に公孫猇にひれ伏します。


◆ ◆ ◆


こうして和晖、ついで和弇が死んだ事件の翌日、朝廷ではその話題になっていました。一通り事件の経緯が羊辛や由子道ゆしどうから報告されたあと、羊玄が上奏します。


「兵たちが、悪人とはいえしかばねの腹を切り裂いたことは人の道にもとる。人々を導き民に安寧をもたらすべきでこのような事件が起きたことは重大に受け止め、責任者を処罰すべきだ。そうでなければ人心は夏から離れる」

「それで、責任者とは誰だ?」

「まずは、兵士を教育した公孫こうそん大将軍だろう」

罷免ひめんするのか?」


羊玄が発言する時に限って女から距離を取って正座している夏后履癸の質問に、羊玄は答えました。


「今は1ヶ月の謹慎で十分だ。仮に公孫大将軍を処分したらどうなる?つい最近、竜が襲来して混乱したばかりだ。公孫大将軍には、それらの竜に立ち向かった実績がある。そのような人を除けば、民はなおさら不安に思うだろう」


その羊玄の弁に、周りの家臣たちは小さくうなずきます。しかし羊玄がそのあとに続けた言葉に、一気に動揺することになります。


「そして、もう1人処分しなければいけない人がいる」

「誰だ」


夏后履癸が尋ねると、羊玄はためらいもなく答えました。


「わしだ」


さすがの夏后履癸も、そばで腕を撫でていたえんの手をのけて、身を乗り出します。


「なぜここにいなかった羊右相が責任を取るのだ?何もしていないだろう」

「先日、竜が斟鄩を襲ったということは、斟鄩の政治が至らないということだ。昨日の事件もその竜と関係があり、政治の不至ふしの象徴である。その責任は、政務を取り仕切っていたわしにある。わし自身が政治を乱していたということだ。民たちはいずれ、わしがいなければ竜が襲ってくることもなかったと噂するだろう。わしは一連の事件の責任をとって5年間、の国(※しょくの近くの国。現代の四川省巴中市しせんしょうはちゅうし周辺。僻地であり流刑地の1つとして使われる)で謹慎しようと思う」


しばらくの沈黙の後、關龍逢かんりゅうほうが手を挙げます。


「羊右相、確かに竜の襲撃は夏の政治を問うものでしょう。政治が乱れたために竜が襲来し、反乱が起きたことは万民が認識しているとおりです。しかし、この夏の国であなた以上に政務を請け負える人がいないのです。実力であなたの上に立てる者はいないのです。あなたがだめなら、夏はますます衰退します。原因は別にあると考えるべきでしょう」

「わしは政務の最高責任者だ。政治は結果で問うものだ。わしは先王の意思を受け継ぎこれまで十年以上右相を努めてきたが、足らなかったということだ。それ以外に理由が必要だろうか」


羊玄はみなが思った以上に、竜の襲撃でダメージを受けているかもしれません。家臣たちが口々に羊玄を引き止めますが、なしのつぶてでした。


「お前がいなければ誰が内政を担うのだ?」


という夏后履癸の質問に、羊玄は少しもよどみなく答えます。


かん左相、そしてわしの愚息のしんもいる。辛は未熟だが、關左相の補佐とすればわしより大いに役立つだろう。關左相らの言うことをよく聞いて政治を進めてくれ」


◆ ◆ ◆


朝廷が終わった後の家臣たちの取る行動といえばもちろん、羊玄の屋敷の前に行列を作ることでした。その行列は長く、ヨーロッパならではの屋敷の大きな敷地を一周するほどでした。そして全員が、羊玄を引き止めるために集まっているのです。

さすがに人数が多いので、羊玄は半分ほどを大きなパーティールームの中に入れてあとは帰しました。集まってきた家臣たちの懇願を聞きましたが、羊玄はことごとく言いくるめて帰らせてしまいます。


「だめだ。今の夏を立ち直せるのはあの方しかいないというのに」

「羊辛様に助けてもらおう」

「頼れるのは羊辛様だけだ」


家臣たちが羊辛を頼るのは当然の行動でした。すぐに宮殿に残って書類仕事をしていた羊辛が外まで引っ張り出されて、円陣を組むかのようにきれいに叩頭こうとうする家臣たちに囲まれます。羊辛ははじめは困惑しました。


「父上はああなると頑固な方です。私に説得できるか‥‥」

「いいえ、なんとしても説得してほしいのです。これは夏の存続の危機です」

「‥‥引き留めるのは私にも無理ですが、善処はしましょう」


こうして羊辛は、多数の家臣たちに崇められながら屋敷に戻りました。

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