第300話 大義名分(1)
立派で大仰な机の椅子に座る子履の前に、あたしと任仲虺が立っています。といっても今日、用事の相手は任仲虺です。
「履さん、急に呼び出してどうなさいましたか」
「
「はい」
任仲虺は子履とすぐ向き合うでもなく、ぎょろぎょろ周りを見回してからうなずきます。
「
「はい」
「なので、援軍の到着を待てる体力を得るために、商は戦争を仕掛けようと思ってます」
任仲虺はいったん黙ってしまいます。黙って、ちらちらとあたしを見ます。一体何があったんだと言いたげですね。
「分かりましたか?」
「‥はい」
「これはあくまで商を守るための戦争です。ですので、夏を仮想敵国に見据える以上、攻め込むなら夏と関係の深い國でなければいけません。この商の西側にある
葛といえばもとは農業大国でしたが飢饉と極端な失政の繰り返しで人口密度は低くなっているので、現状の商には申し分ありません。極端な失政というか、手っ取り早く言えば葛伯も夏帝を彷彿とさせるほどの暴君で、民からただでさえ少ない食料を徹底的に巻き上げ、自分たちの贅沢に使っているのだとか。
「‥‥すぐに行動を開始するのですか?」
「いいえ」
子履は首を振ります。
「いま、夏は
「その方向性はわたくしも同意見です。そのうえで、反乱とみなされないようにするためには、大義名分を掲げるのがいいでしょう」
「大義名分‥ですか」
「はい」
大義名分とはすなわち戦争を正当化する理由です。といっても、よっぽとな内容でない限りもともと味方だった勢力は味方しますし、敵だった勢力はそのまま敵対します。あくまで味方に敵対されないよう、最低限まともで筋の通る内容でなければならないのですよね。
「わずかでも夏に侵攻を思いとどまらせるためには、あくまで商は被害者であるように振る舞い、天下の同情を集める必要があります。諸侯が商に味方するということを示せば、夏もおいそれとは攻めて来ないでしょう」
「しかし諸侯は商に味方するのでしょうか」
「夏は強力ですから、諸侯は商に味方するだけで我が身が滅ぼされるかもしれません。しかし履さんの名声は各地へ広まっており味方する諸侯は他にも多くいるとみな考えるでしょうから、夏に対抗しうる結束を得られる可能性は十分にあります」
「可能性がある、だけですか」
「確実な物事など存在しません」
「なるほど、進むも地獄、引くも地獄ということですか」
子履はため息をつきます。「そうですね、これはゲームではありませんからね」と、ぽつりとつぶやいていました。
諸侯も夏の政治には不満を持っており、
「履さん、わたくしが考えるところでは、今回葛を攻めるのは、商の防衛だけが目的ではありません」
「といいますと?」
「諸侯の出方を探るのです。これまで商は他国へ侵略したことはありませんし、履さんは学園に通っていた時に夏への服従を誓うようなことをあちこちに言って回っていましたし、今でもこうして戦争は絶対にしないという主張を曲げずに多くの家臣を呆れさせています。この話はきっと周辺にも広がっているはずです。今の状態で諸侯の
「仲虺は本当に、先の先まで考えていますね」
「はい。戦争のあとにやることも不完全ですが考えてあります」
「もし夏の行動が予想より早かったら‥‥?」
「そのときは、もう終わりです」
子履はふふふと笑って、天井を仰ぎます。それから、ゆっくりと立ち上がります。
「商は被害者ぶるしかないと言っていましたが、具体的にどのようにすればいいのでしょうか?」
「それはすでに考えてあります。この商の西の方にある
「はい。葛の人が国境を超えて食料を泥棒していたのでしたね。それをお互いの邑はお互いが盗んだと思い込んでいたのでしたね。これは被害者になるに十分でしょうね」
「いいえ、足りません。戦争とは國同士の潰し合いですから、民間で解決されうるトラブルは重大ごとを決める動機にはならないでしょう。どうですか、このトラブルを逆に利用するのです」
「と、いいますと‥‥?」
◆ ◆ ◆
その次の朝廷で、上奏の処理が一通り終わると、子履は話し始めました。
「私からひとつ、提案ですが。いま、葛では葛伯の苛政によって多くの民が苦しんでいると聞きます。その苦しみは
「反対です!」
すぐに多くの家臣の手が上がります。そりゃそうですよね、この商も来年来るであろう食糧難のために悩んでいるところです。他に食料を分け与える余裕がないことは、子履も含めみんな分かりきっています。
それでも少数ではありますが賛成してくれる人はいました。最後は子履の鶴の一声で押し切ってしまいます。ちなみに後日このことを「戦争に反対しまくった経験が生かされましたね」といじってみたら、「恥ずかしい話を蒸し返さないで下さい」と言われましたけど。
「それでは、葛伯が支援物資を着服する可能性があるのでしたら、こちらから葛の民に直接食料を届けるのはどうでしょうか?」
そう子履が尋ねると、徐範が話に割って入ります。この日の徐範は、まだ賛成か反対か立場を濁したままでいました。
「それでは葛の自治権を侵害することになり、筋が通らないものです。しかしあくまで商の人が直接支援物資を届けたいのであれば、葛伯に許可を取るのはどうでしょうか」
「分かりました。使者は徐範、お願いできますか。葛伯に物資を届けない理由も、もっともらしいのを考えて下さい」
「承知いたしました」
徐範は頭を下げて、さがります。が、またすぐに発言を求めます。
「國として支援したことを諸侯に知られると、また食料を無心しに来る國が増えます。あくまで民間同士のための支援であることを示すことにし、食料を運ぶ人は民間に任せてみるのはいかがでしょうか」
「はい、私も同じことを思っていたところです。この手配は
「はい」
そこで大体のことは決まって、朝廷は終わりました。
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