第299話 料理の誘い

これまでにも何度か紹介しましたけど、後宮の一階に執務スペースがあります。後宮という場所の特異性から、ほぼあたしや任仲虺じんちゅうきが使うことが多いです。

しょうの國の伯は代々女性が務めてきましたが、配偶者は何もしないことも多く、それゆえに子履しりの家臣という立場のあたしにとって急ごしらえでもいいので執務用の部屋が必要だったのです。というわけで宮中の仕事を後宮に持ち帰って、昼間はこの執務室で書類を書いているわけです。


あたしは今日も、そこで書類にサインをしていました。ここが実質あたしの書斎になっていて、あたし用の本もこの部屋の隅っこの本棚に並べてあります。

そこでドアのノックがしたので、あたしはその人たちを部屋に入れます。


3人の男でした。みんな、見覚えのある人たちです。あたしは思わず机の椅子から立ち上がります。3人は何も言わないまま丁寧にはいをします。


「単刀直入に申します。料理長さま、厨房に戻っていただけないでしょうか」

「我々一同、お待ちしております」

「伊料理長がおられなくなってから料理の質がたださがりで、我々も努力しているものの満足できる味を出せず、料理長のアドバイスが必要なのです」


あたしはぎゅっと手を握りました。そんなことを言われても、あたしの返事は分かりきっています。


「あたしはもう料理はやめました。料理長でもないんです」

「ですが現在の副料理長が、料理長への昇格を拒否なさっておりまして。このポストはもうあなたしかいないのです」


この前、すいの國にいる、前世日本であたしに虐待をしていた料理人が商に仕えようとした事件があったあと、あたしはなんとなく厨房から足が遠のいていました。例の料理人は腕だけはあったので、それをあたしの都合で追い出してしまった後ろめたさ。最初は落ち着いてからまた行こうと思っていましたが、しばらく行かないとそのうち行かないのが当たり前になってきて、顔を出すこと自体にも後ろめたさを感じるようになるものです。ですが、そのようなものは些細なことです。本当の理由は‥‥ありますが、なかなか口から出てきません。

くだんの事件から2ヶ月たったところであたしは正式に料理人を辞職する書類を書いてしまいました。今はもう冬に入りつつあるので、あの事件からけっこう経ってしまったのでしょう。


「そんなことはおっしゃらずに。みなさん、あなたの帰りを待っています。戻れない事情があるのなら、私達にできることがあれば何でもいたしますよ」

「‥‥あたしは遂から来た料理人を追い出してしまいました。厨房を実力主義の職場にしてしまったのはあたしですし、それに矛盾したことをしたので責任を感じています」

「私たちはたてに3年以上も伊料理長と一緒に仕事してきたわけではありません。料理長の腕だけでなく人柄も、我々はよく存じ上げています。おそらく遂の料理人についてはなにか個人的な事情があったのでしょう。それよりも我々はとにかく、料理長のもとで学びたいのです」

「でも‥‥」


あたしがためらうそぶりを見せると、いきなり横の壁からぺらっと壁紙だったものが剥がれ落ちます。子履でした。子履が壁紙を持って壁に隠れていたのです。忍者かよ。これから毎日、部屋に入る時に壁をチェックする作業が増えますね。

歩いてきた子履はやっぱり、あたしに懇願します。


「私からもお願いします。私ものおいしい料理が食べたいですし、それにせん(※子履の妹)にも事情は話しているのですが、亘も内心不満に思っているでしょう」

「‥‥ですが、あたしは‥‥料理する気分になれないです」


子履はあたしにすり寄ってきて、ぎゅっと手を握ってきます。


「摯。爽歌そうかと過去にあったことは理解しています。でも摯は本当にそれでいいのでしょうか?今まで、摯は料理しているときが一番生き生きしていました。フルコースをごちそうしてくれた時に楽しそうに説明してくれたことは、今でも心に残っています。私は摯の料理が食べたいですし、生き生きしている摯も見たいです」

「‥‥ですが」

「逆に聞きます。私が夏台かだいに囚われた時に摯は前世の記憶を取り戻したと言っていましたが、あの時に母親のことも思い出していたはずです。なのにまだ料理を続けていたのはどうしてですか?いや、前世でも親から逃げて私に出会ったあとも、料理を続けていましたよね。摯にとって料理とは何なのでしょうか?」

「それは‥‥」


あたしは言葉に詰まります。


◆ ◆ ◆


あたしにとって料理は、日常の一部です。

確かに前世では、親から逃げ出したあと一時的に料理していなかった時期もありました。でもあたしが料理を再開したきっかけは、あたしを拾ってくれた老夫婦のうち義理の母が風邪で寝込んでしまったことです。料理できるのがあたしだけだと知って、あたしは世話になっている父のために大根に包丁を入れました。そのさくさくとした切れ味に、なつかしさを覚えていました。気がついたらあたしはどんどん、息をするように料理を進めてしまっていました。

料理はあたしの一部なのだと思います。料理がなければ、あたしはあたしじゃない。前世ではそう思って、熱心で作っていました。

老夫婦のためはいつしか雪子のために変わりました。雪子ならこれを食べてどのような顔をするのかなと思いながら料理して、弁当も作ったりしました。


でも‥‥その料理の腕は、あたし1人で作り上げてきたものではありません。あたしに虐待していた親に教えられたものです。その親がいなければ、今のあたしの料理はありませんでした。

前世でも現世でも、あたしは親のことを忘れて雪子や子履のために料理を作り続けていました。でも、母親と再会して思い出してしまったのです。今のあたしにはよく分かりませんが、多分、料理と虐待が結びついてしまったのでしょう。


子履たちを追い出したあとたった1人になった部屋で、あたしは窓から夕日を見上げていました。

視界が歪んできます。あたしは目をこすりますが、残ったそれが頬までこぼれ落ちます。


あたしたって料理したいです。でも包丁を握れば、またあの顔を思い出してしまいそうです。


ぎゅっと、後ろから抱かれます。体温があたしの背中に伝わってきます。


「履様‥」

「摯。先程は無理を言ってすみませんでした」

「そんなことは‥ないです」


子履は「そうですか‥」と、しばらくうつむいてみせます。


「摯をしいたげてきた親はまた、摯に料理を教えてくれた人だったのでしたね。あの親に出会ってから、料理のたびに虐待のことを思い出すようになったのでしょうか?」

「お見通しでしたか」

「これくらいのことがわからないと、摯の妻は務まりませんよ。こうの魔法で頭の中を見たわけではありませんから」


なんかものすごく怖いことを言っている気がしますが、あたしは何も聞かなかったことにして「‥‥ありがとうございます」と言っておきました。少し冷静に考えてみましたが、光の魔法でできることは五行と同じで、五行に思考を読む魔法はなかったはずです。なかったですよね?うん。


「もし料理したくなったら、いつでも私に言ってください。私は料理ができませんが、摯のそばにいることはできます」

「あっ‥‥」


子履の言葉に、あたしは思わず言葉を漏らしてしまいます。


「料理につらい思い出があるなら、私の思い出で上書きしてみませんか?摯はおそらく前世でも現世でも、料理をしている時は何かに悩む様子もなく、平然としていました。摯、私のために料理して下さい。つらくなくなるまで、私がずっとそばにいますから」

「そんな‥悪いですよ」

「私は摯に何度も助けられてきました。摯にとっては負担に見えるようなことでも、私には足りないのです」

「‥ありがとうございます」


あたしはぐすぐすと目をこすって、もう一回「ありがとうございます」と言いました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る