第299話 料理の誘い
これまでにも何度か紹介しましたけど、後宮の一階に執務スペースがあります。後宮という場所の特異性から、ほぼあたしや
あたしは今日も、そこで書類にサインをしていました。ここが実質あたしの書斎になっていて、あたし用の本もこの部屋の隅っこの本棚に並べてあります。
そこでドアのノックがしたので、あたしはその人たちを部屋に入れます。
3人の男でした。みんな、見覚えのある人たちです。あたしは思わず机の椅子から立ち上がります。3人は何も言わないまま丁寧に
「単刀直入に申します。
「我々一同、お待ちしております」
「伊料理長がおられなくなってから料理の質がたださがりで、我々も努力しているものの満足できる味を出せず、料理長のアドバイスが必要なのです」
あたしはぎゅっと手を握りました。そんなことを言われても、あたしの返事は分かりきっています。
「あたしはもう料理はやめました。料理長でもないんです」
「ですが現在の副料理長が、料理長への昇格を拒否なさっておりまして。このポストはもうあなたしかいないのです」
この前、
くだんの事件から2ヶ月たったところであたしは正式に料理人を辞職する書類を書いてしまいました。今はもう冬に入りつつあるので、あの事件からけっこう経ってしまったのでしょう。
「そんなことはおっしゃらずに。みなさん、あなたの帰りを待っています。戻れない事情があるのなら、私達にできることがあれば何でもいたしますよ」
「‥‥あたしは遂から来た料理人を追い出してしまいました。厨房を実力主義の職場にしてしまったのはあたしですし、それに矛盾したことをしたので責任を感じています」
「私たちはたてに3年以上も伊料理長と一緒に仕事してきたわけではありません。料理長の腕だけでなく人柄も、我々はよく存じ上げています。おそらく遂の料理人についてはなにか個人的な事情があったのでしょう。それよりも我々はとにかく、料理長のもとで学びたいのです」
「でも‥‥」
あたしがためらうそぶりを見せると、いきなり横の壁からぺらっと壁紙だったものが剥がれ落ちます。子履でした。子履が壁紙を持って壁に隠れていたのです。忍者かよ。これから毎日、部屋に入る時に壁をチェックする作業が増えますね。
歩いてきた子履はやっぱり、あたしに懇願します。
「私からもお願いします。私も
「‥‥ですが、あたしは‥‥料理する気分になれないです」
子履はあたしにすり寄ってきて、ぎゅっと手を握ってきます。
「摯。
「‥‥ですが」
「逆に聞きます。私が
「それは‥‥」
あたしは言葉に詰まります。
◆ ◆ ◆
あたしにとって料理は、日常の一部です。
確かに前世では、親から逃げ出したあと一時的に料理していなかった時期もありました。でもあたしが料理を再開したきっかけは、あたしを拾ってくれた老夫婦のうち義理の母が風邪で寝込んでしまったことです。料理できるのがあたしだけだと知って、あたしは世話になっている父のために大根に包丁を入れました。そのさくさくとした切れ味に、なつかしさを覚えていました。気がついたらあたしはどんどん、息をするように料理を進めてしまっていました。
料理はあたしの一部なのだと思います。料理がなければ、あたしはあたしじゃない。前世ではそう思って、熱心で作っていました。
老夫婦のためはいつしか雪子のために変わりました。雪子ならこれを食べてどのような顔をするのかなと思いながら料理して、弁当も作ったりしました。
でも‥‥その料理の腕は、あたし1人で作り上げてきたものではありません。あたしに虐待していた親に教えられたものです。その親がいなければ、今のあたしの料理はありませんでした。
前世でも現世でも、あたしは親のことを忘れて雪子や子履のために料理を作り続けていました。でも、母親と再会して思い出してしまったのです。今のあたしにはよく分かりませんが、多分、料理と虐待が結びついてしまったのでしょう。
子履たちを追い出したあとたった1人になった部屋で、あたしは窓から夕日を見上げていました。
視界が歪んできます。あたしは目をこすりますが、残ったそれが頬までこぼれ落ちます。
あたしたって料理したいです。でも包丁を握れば、またあの顔を思い出してしまいそうです。
ぎゅっと、後ろから抱かれます。体温があたしの背中に伝わってきます。
「履様‥」
「摯。先程は無理を言ってすみませんでした」
「そんなことは‥ないです」
子履は「そうですか‥」と、しばらくうつむいてみせます。
「摯を
「お見通しでしたか」
「これくらいのことがわからないと、摯の妻は務まりませんよ。
なんかものすごく怖いことを言っている気がしますが、あたしは何も聞かなかったことにして「‥‥ありがとうございます」と言っておきました。少し冷静に考えてみましたが、光の魔法でできることは五行と同じで、五行に思考を読む魔法はなかったはずです。なかったですよね?うん。
「もし料理したくなったら、いつでも私に言ってください。私は料理ができませんが、摯のそばにいることはできます」
「あっ‥‥」
子履の言葉に、あたしは思わず言葉を漏らしてしまいます。
「料理につらい思い出があるなら、私の思い出で上書きしてみませんか?摯はおそらく前世でも現世でも、料理をしている時は何かに悩む様子もなく、平然としていました。摯、私のために料理して下さい。つらくなくなるまで、私がずっとそばにいますから」
「そんな‥悪いですよ」
「私は摯に何度も助けられてきました。摯にとっては負担に見えるようなことでも、私には足りないのです」
「‥ありがとうございます」
あたしはぐすぐすと目をこすって、もう一回「ありがとうございます」と言いました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます