第48話 子履の不安

帰っていく2人を見送った後、バイトを終わらせたあたしと及隶きゅうたいは、子履しりと一緒に夕日のもとで帰途につきます。

大通りを歩いているところで、いきなり叫び声が聞こえます。


「おい、しりがいが切れてるぞ!」

「ああ困ったな、まだ開いてるみせはあるか?」


紂とは駕車かしゃと呼ばれる、荷物や人を引く馬車のようなもので、馬の後ろにつけて荷物と結ぶベルトのことですね。しかしその言葉を聞くと、子履はぴくっと立ち止まります。あたしと及隶は何歩か先に行ったところで止まって振り向きます。


「どうなさいましたか、様」

「‥‥何でもございません。行きましょう」


子履はにこっと笑って、また歩き始めました。


◆ ◆ ◆


寮に戻っても子履の表情は晴れません。あたしは及隶を部屋に戻すと、また子履のあとを追いかけます。本当は近づきたくもないんですが、やっぱり不安そうにしている子履をこのままにはしておけないです。


「履様、ご気分が優れないですか?」

「‥何でもございません」


子履はあくまで話さないようです。


「履様が話してくれないと、あたしまで不安になります」


しかし子履は返事もせず、そのまま自分の部屋に帰っていってしまいます。

どうしたものかと思って部屋に戻り、及隶や妺喜ばっきと少し話します。公孫猇こうそんこう羊玄ようげんがあたしのみせに来られた話、饂飩うんどんを作った話をしました。妺喜はどれも興味深そうに、うなずきながら聞いていました。


その日の夜、妺喜が寝静まったのを見てあたしも寝ようと布団に入ったところで、コンコンと小さいノックの音が聞こえます。あたしがそのドアを開けると‥枕をぎゅっと握った子履がいました。

子履はあたしの顔を見ると真っ暗な顔でうつむいて、それからまた年下のあたしの顔を見上げます。その表情はずるいです。救いを求めているかのような叫びを感じましたので、あたしはにっこり笑って子履を部屋に入れます。


「‥妺喜は寝たようですね」

「はい。突然どうなさいましたか」

「‥眠れないのです」


子履は枕をぎゅっと握って、なおドアの前から動きません。あたしは構わずベッドに座ると、隣をぽんぽんと叩きます。子履がおそるおそる近寄ってきます。


「いいのですか‥?」

「はい。困ってる子は見逃せません」


◆ ◆ ◆


子履とあまりくっつきたくないあたしがベッドの端にいるのはもちろんですが、子履ももう一方の端にいます。ていうか壁とは反対側です。


「そこにいると落ちますから、代わりましょうか?」

「いえ‥壁の方だと逃げられません‥」


逃げられないのはあたしのほうなんだけどな。子履は眠れないとはいえあたしと一緒に寝るのがまだ慣れないようです。

でも単に寝れないのなら、こうやってベッドから落ちそうなほどに避けるくらいならあたしの他にも選択肢はあるのではないでしょうか。


「なぜ仲虺ちゅうき様と一緒に寝られないのですか?」

「‥‥未来の話ができるのはしかいませんので」


なるほど‥夕方の件ですね、とあたしは勘付きました。子履がころんと、こちらへ向きを変えてきます。子履の顔が見えると、あたしは急に子履と同じベッドで寝ていることが恥ずかしくなってきました。子履も同じことを思っていたようで、寝転がる時少しだけあたしとの距離が縮むのですが、それを元に戻すようにまた向こう側に下がります。

それでも言いにくそうにもたもたしていましたので、あたしのほうから話しかけます。


しりがいがどうかしましたか?」


子履はしばらく黙っていましたが、やがて口を開きます。


「‥ちゅうは、私の子孫のあだ名なのです。夕方の一件で、それを思い出したのです」

「紂はどのような人でしたか?」

「紂‥‥正しくはじゅですが、しょう朝の最後の王です。妲己だっきという女を侍らせ、佞臣ねいしん崇候虎しゅうこうこ費中ひちゅう悪来あくらいを重用し、比干ひかんなど多数の忠臣を殺し、商容しょうよう祖伊そいなどを退けたため、しゅう姫発きはつ呂尚りょしょう(※太公望たいこうぼう。姓字で姜子牙きょうしがとも)、閎夭こうよう周公旦しゅうこうたんらの助けを借りてこれを滅ぼしました」

「そんなことがあったんですね‥」


あたしが軽く返事すると、子履はふうっと鼻から勢いよく息を放ちます。


「‥似ていると思いませんか?」

「えっ?」

「王が女を侍らせ、忠臣を退け、佞臣を重用し、人望を集めた君主に滅ぼされる構図は、の滅び方とよく似ているのです。夏や商の話も実は後世の作り話で、実際はどちらの最後の王もまじめに働いていたものの、商や周が勝手に反乱を起こして滅ぼしただけという説もあるのです」

「なぜそんな作り話を?」

「2つの可能性が考えられます。1つは時の君主を諌める目的で儒学者が作り話をしたこと。1つは商や周の国が自身のイメージを損ないたくなかったこと。そもそも五帝ごていの時代、帝が入れ替わる時はどのようにしていたか覚えていますか?」

「えっと‥禅譲ぜんじょうです」


五帝は、周囲に慕われている優れた人を見つけるとその人を後継者として育て、最後には禅譲して死にました。自身の子供である必要はなく、世襲なんてなかったのです。


「ですよね。禅譲に限らず、仁徳を積み重ねることで周りを心服させる政治は、春秋時代に成立した儒教でも理想とされ、王道おうどうと呼ばれています(※『王道』は現代日本では別の意味で使われる)。そして、この王道によって治められていた時代を、前世ぜんせいといいます(※輪廻転生において前の人生をさす『前世』とは全く別の意味)。ですがは中国史上初めて世襲を導入し、優れた人物よりも自分の子を優先したことから、結果として徳がうすれてしまったと言われています。三皇五帝の時代に対して、夏以降の時代を後世こうせいといいます」


なるほど‥難しい言葉がたくさん出てきて分かりませんけど、要するに中国の国は世襲が基本だと言われていましたが、夏の時代から始まっていたのですね。


「後世にはもう1つ、重要な変化があります。武力による治世のはじまりです。武力や策略をもって周囲を従えます。また放伐ほうばつといって、既存の王朝を、禅譲ではなく戦争で乗っ取るのです。これは王道に対して、覇道はどうといいます」

「えっ、戦争で滅ぼすって、それが普通では‥」

「いいえ、特に三代さんだい(※夏、商、周)では武力よりも徳が重要視され、徳のない君主は滅ぶべきであると言われていました。簡単に言うと、弱い国ではなく悪い国が負けるのが当たり前とされている時代でした。ですから王朝を滅ぼした国は、前の王朝についてあることないことをでっち上げ、自分の侵攻を正当化する必要があったのです。そうでなければ、どの国も味方してくれず短期政権に繋がりますから」

「それが作り話につながっていくのですね」

「はい。前世の歴史書は、儒教の影響を強く受けて改竄されたというのが私の考えです。儒教は春秋時代に成立しましたが、あれは中国に古来より伝わる考え方を体系化したものにすぎませんからね。古代中国の思想そのもので、日本の神道のようなものです。実際には三皇五帝もほとんど作り話で当時も武力抗争による政局変化があったでしょうけど、これ以上言ったら話がややこしくなりますね‥」


子履はうなずいて、それから、あたしの顔を覗き込みます。


「私は2つの意味で怖いのです。ひとつは、この世界の歴史が前世の史書通りに動いていること。前世では作り話だと思われていた部分も、現在の夏后履癸かこうりきの振る舞いを見ているとこの世界ではあながち創作とも言い切れません。中国の歴史書には政治的な理由から意図的に創作を含むことも多いです。例えば孔甲こうこうに仕えた劉累りゅうるいという人物は『史記』に書かれていますが、実際はかんの時代に創作された架空の人物という説もあります。しかしこの世界ではすでに墓や記録があり実際に存在していたようです。まるで誰かに創作された世界の中で、私達が俳優として演じているかのように、ほぼ史書通りに歴史が動いているのです。そんな世界の中で、私は運命に抗えず、本当に夏を滅ぼし多くの人民を殺傷するのでしょうか。それが怖いのです」

「‥‥‥‥」

「そしてもう1つは、私が仮に史書通りに夏を滅ぼして商王朝をたてたことで、私の子孫の子受しじゅ(※紂王ちゅうおう)が同じような末路をたどり、最後には史書通り三監さんかんの乱によって潰されるのではないかと」

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