第49話 その少女の名は柏原雪子
うん、あたし中国史に関しては前世の高校の世界史でちょっと学んだ程度の素人なんですけど、素人がいきなり『中国の歴史書には嘘が混じっているのが当たり前』とか言われて分かると思います?とかとかいろいろ言いたいことはありました。ですが、とにかく目の前にいる
「
「‥‥‥‥」
「正直あたしは歴史のこととかよくわからないんですけど、つらくなったらいつでもあたしにぶつけるつもりで話していいですよ」
「ありがとうございます‥」
なおもその声がか弱かったので、あたしは手を伸ばします。子履は最初はためらっていましたが、やがてその手を片手で、軽く握ります。
「ありがとうございます。
子履との関係はあまり進めたくないのが本音ですが、落ち込んでいる人を追い出す度胸もないです。今はとにかく、目の前の女の子が満足すればいい、と思うようになっていました。
なんとか子履をなだめているうちにウトウトしてきて、そのまま眠りに落ちます。
◆ ◆ ◆
「日本には壇ノ浦の戦いという悲劇的な合戦がありましたが、似たような戦いが中国にもありました。
青天が照らす高校の屋上で、前髪を鼻先くらいまで長く伸ばしたボサボサ髪の少女が、当たり前のようにベンチのあたしの横に座って、弁当箱を開けていました。濃い藍色の制服に身を包んでいます。ここは夢の中でしょうか。
何で勝手にあたしの隣に座っているの、と言いかけましたが、そんなことを言うといじめられっ子のこの子がまた泣いてどこかへ行きかねません。あたしは少女の長話を右から左へ聞き流しながら、慣れた手付きで自分の弁当を食べます。
「
長話は聞き流すようにしてましたが、少なくとも食事中にするような話ではないということが分かりました。
でもその少女の目はきらきらしていて、楽しそうで、とてもあたしから踏み込めるような雰囲気ではありませんでした。それに、その明るい顔を見ていると、なぜだか分かりませんが、あたしまで癒やされるような気分になるのです。心が落ち着いて、安心してしまうというか。
「‥‥激しい戦いの中、宰相の
「はいはい、ストップストップ」
食事中にそんな話をされたら気分が沈みます。ていうか食事中になんてことを楽しそうに話してるんですか。それだけこの子は中国史が好きなんですね‥‥いえいえ!ここは一言言わなければいけません。
「食事中なんだから、もっと明るい話しようよ!」
「暗い話は嫌いですか?」
「だって食事中に、人が死ぬとかめっちゃ嫌になるじゃん?」
「そういうものなのですか‥‥?」
少女は不思議そうに首を傾げます。世間からちょっとずれた子でしょうか。でもその無垢な表情が嫌いではありません。あたしは自然と視線をそむけます。
「‥‥楽しい話、楽しい話ですか‥‥では周の
「待って、それ最後に人が死んだりしない?」
「幽王と
「うん、だからそういうのはやめようね?ね?」
「むう‥」
少女は不満そうに唇を尖らせます。そのままいくらか食べ物を口に入れてから、空を仰いでふうっと息をつきました。
「話題がないの?」
「‥‥思い出しているところです」
「じゃあ、別に中国の歴史じゃなくても、キミの身の回りのこととか、天気や遊びのこととか、いくらでも話せることあるじゃん?」
「‥‥私は友達がいませんから、中国の歴史くらいしか話せることがないのです」
あたしはふふっと苦笑して、それから少女の手を優しく触ります。
「じゃあ今度、公園にでも行かない?」
「公園‥‥ですか」
「あっ、キミってインドアかな?じゃあゲームセンターにしよっか!駅前でいろんなもの食べながら遊ぶの、絶対楽しいよ!どう?」
あたしがそう提案すると少女はあたしの顔を見上げて、それからまたうつむいて目をこすって、うなずきます。
「‥はい。よろしくお願いします」
「‥よし、これでやっと中国以外の話ができるね」
あたしがにこっと笑うと、少女はためらったように身を引きますが、そのあと「あはは‥」とわざとらしく笑ってみせていました。
‥‥そういえば、この少女の名前、まだ聞いていませんでした。この少女は何日も何日も屋上で食事しているあたしの隣に勝手に座り込んでいたのです。わざわざ名前を聞くほどでもないと思ってましたが、一緒に遊びに行く約束をしてしまった以上、名前がないと不都合です。
「誘っておいて今更すぎるんだけど‥‥名前を教えて?」
「
「雪子、よろしくね!」
力強く返事するあたしに、少女は少し迷った様子で質問してきます。
「それで‥あの‥あなたの名前は?」
「‥‥‥‥えっ?」
これまで自分はこの世界の住人だと思っていたのに、意識が急に別の世界へ引き離されるかのような、そんな感じがします。自分の名前が出てきません。なんだろう、どこかに置き忘れたような嫌な感じがします。
自分の名前が思い出せない。それに気づくと、急にあたしの体は恐怖に包まれます。えっ‥?どういうこと‥?
途端に、目の前にいたはずの雪子も、高校の屋上も、何もかも消えて真っ暗になります。
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