第283話 姬媺が商に来ました(1)

広萌真人こうぼうしんじんが姿を消すと、入れ替わるように使者がやってきました。姬媺きび商丘しょうきゅうに入って亭に到着したようです。早速任仲虺じんちゅうきも巻き込んで、その足で亭に駆け込みます。


「2人とも久しぶりね」


亭の客間に顔を出してきた姬媺は、ふんぞり返っていました。「姿勢を正してください、外交問題です」と、隣の椅子に座る姜莭きょうせつが小声で袖を引っ張っていました。あたしがそうの国に行ったときよりも明らかに機嫌が悪そうでしたので、聞いてみます。


「ここに来るまでに何かありましたか?」

「わかる?実は陶丘とうきゅう(※曹の首都)の近くに賊が出たのよ。商の近くには出ないと思ってたけど、間違いだったわ」

「曹はここよりもに近いですからね」

「そういうものかしら。ともかく、あいつらまとまてかかってくるの。将軍を10人、歩兵1000人でやっと抑えたわ。そんなに兵力があるなら夏へ行けばいいのに」


すでに鎮圧は済んでいるようですが、姬媺はまだ不満げに、テーブルを人差し指でこすります。「行儀が悪いです」と姜莭がまた注意します。小学生の保護者かな?


「商でも西の方でいさかいがあって、今朝の朝廷でとりあげたばかりです」


子履しりは笑いました。


「へえ。商の西というと、かつの近くじゃないの。葛にも夏と同じように賊は出るのかしら」

「葛は夏に従順な国の一つですから、夏にあわせた政策を取っていれば可能性はありそうですね」


子履は言葉を濁します。戦争をするわけでもないのにあまり夏を貶したくないという気持ちがなんとなく見えます。しかし、やはりといえばそうですが、姬媺は真逆の方向から突っ込んできます。


「いるに決まってるわ。あんた、今までどこ見てたのよ。葛伯は先祖を祀らず、荒廃した農地を放置して、昼から酒を飲んで女と遊んでいるらしいわ。夏帝と何も変わらないわよ。あんたもそろそろ、不徳が移るってクレーム入れたほうがいいんじゃないかしら?葛の方向から移り住んでくる民がどれくらいいるか分かってるの?」

「351名ですね」


あたしが即答すると、姬媺は目を丸くして「そんな細かいことまで調べてるの?」と感心します。


「ちょっと、そのような情報は‥」と任仲虺が心配そうに割り込んできますが、あたしは気軽に説明します。


「商は最近、国勢調査というのを始めました」

「国勢調査?」

「はい。商の各地へ赴いて、それぞれの住宅に住んでいる人の性別、年齢、家族構成、仕事、収入などを細かく調べて、統計にします」

「そんなもの、一体何に使うの?」

「経済、福祉のために正確な統計が必要です。ですよね、履様」


冷静な子履に対して任仲虺が少し慌てるそぶりを見せますが、姬媺は首を傾げます。


「徴兵に使うならともかく、経済にそんなものは必要なの?土地や売上を管理して、不正した人を死刑にするくらいでいいんじゃないの?」

「ああ‥‥」


そこからかーと思っていると、子履が横から耳打ちしてきます。


「古代中国の経済政策は、統計やデータに基づいた西洋的なものとは大きく考え方が違うので、いきなり国勢調査の話を持ち出しても伝わらないと思います」

「ああ、そうか‥‥」

「ついでにいうと現在の商の西洋的な経済政策自体、摯と簡尤かんゆうが何年もかけて積み上げてきた土壌があり、西洋の考え方を理解した家臣が商には多くいますが、そうでない國がいきなり始めるのは難しいでしょう」


そういえば商の朝廷でも、発案者のあたしと簡尤、ついでに子履も加わって他の家臣たちに説明するのに苦労したことを思い出しました。経済にいくらか明るい人達は、こそってそのような考え方があったかと興奮していたものですが、一部の家臣たちはまだそのようなものは役に立たないと納得していませんでしたね。それにしても簡尤はどうしてあたしの考えにすぐ同調できたんでしょうね。

任仲虺も自分の先入観に気づいたのか、子履の耳打ちが終わる頃には椅子にもたれて落ち着いた様子になっていました。


でもこの世界は、経済に使わなかったら一体何に使うんだって突っ込みたくなるくらい、数学が異様に発達しているらしく、国勢調査や統計学の発達の大きな助けになっているのも事実です。子履いわく、ここが異世界だからではなく前世の古代中国でも数学は世界的に発達していたほうで、万里の長城をはじめ各種建築にも応用されていたらしいのです。あたしが国勢調査を朝廷で提案したのをきっかけに、この商の國では何人かの大夫が学者を集めて、数学をもとにした統計学が育ち始めているのですが、きっと数学はあたしが前世から持ち込んできた経済の考え方を陰から支えているのでしょう。

化学・物理学と数学はまだ融合には至っていませんが、いずれそちら方向も発達するでしょうと子履が言っていました。


◆ ◆ ◆


正式な面会は翌日だというのに、姬媺との話も弾んできました。


「そういえば日も落ちてきたけど、あんたは料理しないの?」


そう姬媺が思いついたように尋ねてきます。


「てっきり久しぶりにあんたの料理が食べられると思ってたんだけど」

「あっ‥」


あたしはそれ以上声が出ません。そのままうつむきます。「どうしたの?」と姬媺が前のめりになりますが、あたしの隣の子履が代わりに首を振ってくれました。


「摯は今、ええと‥‥病気で料理ができないのです。そうでしょう?」

「は、はい‥」


すいの國から来た、前世であたしの母親だった高名な料理人を追い出したのをきっかけに、あたしはなんとなく厨房に行かなくなっていました。そのことを思い出して、あたしは涙が出そうに‥‥いいえ、今はお客様の前です。


「あたしは大丈夫ですから。今日はごめんなさい」

「残念ね、食べたかったのに。まあ、次来るときまでに治しときなさい」

「はい、お気遣いありがとうございます」


そんな会話も挟みます。


◆ ◆ ◆


その翌朝、姬媺を大広間に入れて儀礼的なやり取りを済ませてから、改めて宮殿内の部屋に姬媺たちを入れます。テーブルの椅子に座って料理をつまみながら、姬媺と子履の話は弾みましたが、その途中で姬媺がこのような質問をぶつけてきます。


「ねえ、商はわたし以外にも何か客人は来るの?」

「そういえば、昨日は広萌こうぼう真人がお見えになりましたね」


そう子履が返すと、姬媺は口に半分まで入ってきたからあげを飲み込みます。

あっ。あたしは思い出してしまいます。


「‥‥ここに広萌真人が来てたの?」

「はい」

「何で引き止めなかったの?これから姬媺が来るから待ってほしいって言わなかったの?」

「あっ」


子履も思い出したようで、気まずそうな顔をします。姬媺は広萌真人を探しているのでした。数年も前のことでしたし、真人も忙しいと言っていたので、とっさに思い出せなかったのです。


「ええと、昨日の広萌真人は忙しいとおっしゃっていました。昨日の午後に用事があるから早めに帰りたいと」


まあ、ロリコンということで追い出したのはあたしですけどね。


「忙しかったの?真人なんて山で呆けているくせに。ただの老人が真人を名乗ればどこでも丁重に扱ってくれるから安いものよね」

「陛下!言葉を謹んでください!」


姜莭のツッコミに、姬媺は長いため息をつきます。それから、握りこぶしでテーブルを叩きます。


「とにかく、その真人が来た場所に案内してくれない」

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