第284話 姬媺が商に来ました(2)

ということで、あたしと子履しりたちは姬媺きびを、昨日の庭園の六角形の小さい小屋の前まで案内しました。歩いている途中も姬媺は終始無言で、あたしが何か気の利いたことを言おうとしたら睨みつけてきました。怖いです。姬媺は不器用な人だと思ってましたが、このときばかりは攻撃的な表情を丸出しにしています。


「ここがくだんの小屋ね」

「はい」


子履が答えます。姬媺はさくさくと歩いていって、いきなり蹴ります。レンガで固めた小屋の木のドアを蹴ります。遠慮していなかったようで、ぐざっとドアが割れます。あたしも子履もあっけにとられていると、姜莭きょうせつが駆けつけながら怒鳴ります。


「陛下、ここは外国です!」

「関係ないわ!あのくそじじい、あちこちで好き勝手しやがってわたしには正体をあらわさないんだわ!このクソボケ!オタンコナス!」


小屋の中にある机とか棚とか椅子とか、小道具を次々と蹴り上げます。あれ絶対壊れてますよね。姜莭と趙旻ちょうびんが小屋に入って、姬媺を体で止めます。


「陛下、落ち着いてください。ここは外国です!」

「いくら仲が良いとはいえ今ははく同士です。迂闊な行動が國の危機になることをお忘れなさいませぬよう」


などと言って必死で止めています。「あの真人気取りクソジジイの鼻を明かすのよ!」などとわめいています。ここに岐倜きてきがいなくてよかったです。ロリコン‥‥いえ、真人が来られてから災難続きですね、まったく。

にしてもあの2人、顔が苦しそうです。体力がないのでしょうか。仕方ないです。あたしも加勢します。2段の階段を登って小屋に入ると、姜莭と一緒に姬媺を壁に押し付けます。背後からは趙旻の「しょう伯さま、申し訳ありません!」と謝っている声が聞こえます。


「離して!あの耄碌もうろくボケナスの悪行を暴いてやるのよ!」

「ひとまず落ち着いて話を聞いて下さい!」

「痕跡が目の前にあるのに止められないわ!離して!」


などとわめいているうちに、後ろからそっと足音がします。この音、趙旻ではないです。ちらーっと振り返ってみると‥‥「嬀穣きじょうさま‥?」

その顔はまじめというよりは、どこかいらいらしているように見えました。


「ここは私1人におまかせください」

「え、でも‥‥」

「お互いの國のトップにいる者が怪我をなさってはいけません。荒仕事は私にお任せください」

「でも今でも2人かかりですよ、1人でできるんでしょうか‥‥」


あたしはそのときの嬀穣の目を見た瞬間、「あー‥‥」と思い出します。子履が夏台かだいに囚われた時、嬀穣が賊を1人で止めてましたよね。もしかすると‥‥あるんじゃないでしょうか。


「‥‥任せましょうか」

「大丈夫ですか?」

「きっと大丈夫です」


まだおろおろしている姜莭を見てあたしがそっと手を離すと、姬媺がまた暴れ出し‥‥一瞬で静かになります。あまりの豹変ぶりに姜莭が手を離すと、姬媺は真っ青になって声も出さずへたへたと座り込みます。

あたしはおそるおそる振り返ります‥‥が、嬀穣はにこにこ笑っているだけでした。


「えっと‥嬀穣さま?」

「‥‥っ!?」


あたしが声を掛けるなり、嬀穣はすぐさま後ろへ逃げて、身を丸めて壊れた机の裏に隠れます。


「あっあっ、伊摯いし様が貴重な人生の時間を割いて私を気にかけてくださるなど恐れ多い、私の一生の汚点でございます!!」


あ‥‥うん、いつも通りの嬀穣ですね。振り返ると姬媺は‥‥まだ震えて声も出していません。もう一度後ろを見ます。‥‥ん?

あたしはそこにあった机の破片をどかしてみますが、何もありません。あ、破片のもう半分がそこに。どかしてみます。空っぽです。え?嬀穣が一瞬で消えた?


「姜莭さま、嬀穣さまを見ていませんでしたか?」

「いいえ、私は陛下を見ていたので‥‥」


となると、ずっと嬀穣の方向を向いていた姬媺が何か知っているかもしれません。‥‥が、あの様子だと聞き出せそうにないですね。


◆ ◆ ◆


あたしと姜莭は2人かかりで姬媺を小屋から連れ出します。すぐに趙旻が駆けつけて、「商の者にご迷惑をおかけするのは忍びないです」と言い出してあたしから姬媺の肩を奪います。


「迷惑だなんて、そんな‥」

「いいえ、お気持ちは陛下にしっかりお伝えしておきます」


2人はこう言っていますが、まだ時間は残っています。あたしはこっそり声をかけてみます。


「あの、そう伯さま、もうちょっとここでゆっくりなさいますか?馬車に揺られると気分悪いことですし‥」

「いいえ、陛下がまた無礼を働くようなことがあれば申し訳ないので、このまま帰ります」


あ、うん、そうですね‥‥保護者かよ。


「体調がすぐれないようなので、もう少しお休みになったほうがよろしいのではありませんか」


子履が助け舟を出してきます。姜莭が少し首をひねったところで、あたしが「ほら、あちらの部屋があいてますから‥‥」と声をかけてやります。すると‥姬媺の首がかすかに動きます。横に首を振っています。


「‥‥今すぐ帰りたい」

「ええ‥」


か弱い声でしたが、確実に帰る意思を見せています。伯がこう言ったらもう仕方ないです。‥‥が、声があまりに異常なほど静かです。


「曹伯さま、大丈夫ですか?」

「帰りたい‥早く‥」

「ここでお休みになりましょう」


さっきまで何を言っていたのか、趙旻が真逆のことを言ってきます。声を聞いてさすがに心配になったのでしょうか。


◆ ◆ ◆


ここから亭まではちょっと距離があるので、宮殿にある客室を案内しました。姬媺はベッドの上で静かに眠っています。

護衛代わりの姜莭も一緒に入ったその部屋のドアをそっと閉めて、趙旻はため息をつきます。


「‥‥陛下、いつもは演技で死にそうなふりをしているのですが、今回ばかりは本当のようですね‥」


子供かよ。やってること完全に子供と保護者ですよ。ですが、げんなりとしている趙旻の顔を見ると、あたしは口をつくんでしまいます。


「姜莭から聞きました、あの嬀穣という方は一体どのような人でしょうか?」

「それが、あたしにも分かりません。なんとなく限界オタクみたいな雰囲気はありましたが‥‥」


あれ、限界オタクって言葉この世界で通じるんでしたっけ。趙旻は言葉を続けることなく、うつむいてじっとドアを見つめています。


「ご心配なら趙旻さまも中に入っては」

「‥‥はい。では、失礼いたします」


趙旻も部屋の中に入ってしまいました。まるっきり、我が子を心配する保護者のムーブですね。誰も見てないのをちらっと確認すると、あたしはふふっと笑います。


「さて‥」


あたしも姬媺のためになにかできることないかな‥‥できること‥できること‥‥。


「あ‥‥」


あたしの表情は一気に暗くなります。何も触っていない手を、ぎゅっと握りしめます。料理‥‥料理は、もうやめましょう。あたしに料理は合わないですから。


◆ ◆ ◆


翌朝、姬媺は馬車に乗り込む前に、出迎えに来たあたしを振り向きます。


「曹伯さま、どうなさいましたか」


あたしが首を傾げると、姬媺はすぐさま馬車の階段を降りてあたしに迫ります。


「ねえ‥あのやばい奴、商の家臣なの?」

「は、はい‥」


嬀穣のことでしょうか。とにかく姬媺、元気になっていてよかったです。


「あんた気をつけなさいよ、あの女、きっとやばい奴よ」

「あっ‥陛下の戯言は気になさらぬよう‥」


姜莭はそう言ってきますが、語気はいつもより弱めですし、姬媺の手を軽く引っ張るしかしていません。「‥‥そうね」と、姬媺はこのときばかりは素直に応じて、馬車に乗り込みます。


北へ向かう馬車を見送って、あたしは嬀穣のことを考えていました。

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