第276話 旧世界の魔法
「殺すしかないだろう。いや、殺すでは済まない。魂を滅してやる」
「へえ。最近の幼女は進んでいますね。生死の
「お前ももちろん知っているのだろう。私が誰なのかを」
「何のことやら」
嬀穣は笑いながら、及隶の様子をうかがいます。そして片脚を一歩後ろへ動かしますが、それを及隶は咎めます。
「言っておくが、この一帯には結界を張っている。逃げることはできない」
「へええ‥‥一体私が何をやったと言うんでしょうね」
「分かってて聞いてるのか?お前は私の計画を滅茶苦茶にしたのだ」
そう言って、及隶は指を1本立てます。
「まず1つ。お前は
「同じ逃げることに変わりはないでしょう」
「そこで任仲虺はいちど臨死を体験するはずだった。魂が少しでも体から離れれば、代わりにこちらが用意した魂を入れる余地があったのに、お前はその機会を潰した」
そして、指を2本立てます。
「次の1つ。お前は
「ただ都市を歩いていただけなのに、言いがかりもいいところですね」
及隶はまた、指を3本立てます。
「最後の1つ。お前は
「へえ、あれは『禁断の門』というのですね、知りませんでした」
「お前以外にも、協力者がいるのだろう」
2人の間に、沈黙が走ります。
「‥‥協力者とは、何のことでしょう」
「
「皇の力を超えていたら、それはもう皇じゃないですか。そもそも、臨死状態にするよりも殺してしまうほうが簡単じゃないですかね」
「お前も分かっているはずだ。
それを嬀穣は聞いていましたが、のんきに腕を伸ばしています。及隶が獣のような目でそれを睨むと、嬀穣はくすりとほほえみます。そして‥‥懐から取り出した眼鏡をかけます。自分の三つ編みの髪の毛をほとぎます。
ぼさっと広がる髪の毛は、この世界の文明とは似ても似つかわしくないほど、赤橙に輝いていました。
「‥などともっともらしく言ってるけど、要は自分の思い通りにいかない奴をぶっ殺すってことで合ってるん?それが皇のやり方か」
嬀穣は壁に背中をあずけて髪の毛をぼりぼりかきながら、及隶をぎろりと睨みます。
「本性を現したな。嬀穣。『旧世界』の生き残りか」
「やれやれ、そうなると私の父上まで殺されちゃうね。ひとつ訂正させてほしいな。私は生き残りではない。『旧世界』の人間だったという前世の記憶を受け継いで生まれたんだ」
「そのわりには『旧世界の魔法』が使えるのだな」
「この世界の人達は知らないけど、実は誰でも旧世界の魔法が使える。たったひとつ理解していればいいんだ。この世界の魔法に、
「‥‥矛盾はしない」
そう言い終わるやいなや、及隶の体がふっと消えます。
後ろか。
嬀穣は魔力を込めた回し蹴りを食らわしますが、そこには誰もいません。残像が見えたので、はっと上を見上げます。
『
雷が無数の槍となり、細い槍となり、轟音をあげて突っ込みます。
嬀穣は足に力を込め、くるりと飛び跳ねます。風を切る薙刀のように体を回転させ、地面に衝突する雷の轟音と衝撃に挟まれるような隙間を見つけて割って入ります。
動きにくい漢服を嬀穣は脱ぐこともせず、むしろ体から離れないように襟をしっかり掴んでいます。
「余裕だね。そんな服だと動きづらいだろうに」
「
「やれやれ、そこまで知っていたのか」
ここは結界の端に近いです。正面から迫ってくる及隶を強行突破するしかありません。嬀穣は瞬時にそう判断して、はやてのように脚を動かします。
目の前に、黒い閃光が迫ります。嬀穣は飛び上がるとそれに背中を半分見せて、呪文を唱えます。
その空間が爆発します。
轟音が土をかき乱し、建物の壁にひびを作ります。雲のような土煙が視界を奪います。
音を立てずに、後ろへ回ります。
及隶の無防備な頭が見えます。
そして、手を上げます。
好機です‥‥嬀穣はそれを振り下ろそうとし‥‥その手首が後ろから誰かに掴まれているのに気づきます。
「やめろ。お前では泰皇に勝てない」
土煙が晴れます。目の前にいたはずの子供くらいの大きさをした黒い影は、土煙と一緒に揺れてなくなります。
「‥‥真人」
嬀穣の手首を掴んだのは、他ならぬ、
「‥‥いやあ、最初から負けるのは分かってたんだよ。どうせ殺されるなら少しでも殴りたいと思っただけさ」
「旧世界の魔法は確かに強力だし、前世のお前もそこそこの使い手だったが、皇の体に触れるわけがないだろう」
「ははは‥‥悔しいねえ」
そんな2人の前に立ちはたかった及隶は、しかし、その顔はもう戦いのそれではありませんでした。不敵な笑みを顔に浮かべます。
「さすがに2対1は分が悪いな」
「いや、その姿のせいで力が出ないのだろう」
「何のことだか」
及隶はそう笑ってみせて、そして次の一歩を踏み出すと同時にふっと姿を消します。
「毎回思うんだけどさ、どうして泰皇をほっとくん?体が小さくて本来の力を出せないと何度も聞いてるけど。やっつけるなら今でしょ」
「理由がある。お前には想像もつかないような理由だ。決して見逃しているわけではない」
「ふうん」
嬀穣はそこでやっと、ぼさぼさで乱れた髪の毛をまとめ始めます。三つ編みは時間がかかるのです。
「手伝おうか?」
「わりい、じじいは苦手なんだ」
「前世を思い出してから、年上に容赦がなくなったな」
「はははっ。『旧世界』にはじじいを敬う教えはなかったんだ、大目に見てくれよ」
片方の三つ編みを結びきった嬀穣は、「ふう」とため息をついてそばの壁に尻をくっつけます。
「なあ、うちって命を狙われてることになんないか、もしかして」
「そうだな」
「うちを見殺すん?」
「まさか。そうはいかない。わしが
その名前を聞いて、
「あの男色ちゃんが好きなんだ?真人は。岐倜はともかく、真人は人間じゃないんだろ?」
「それは言わない約束にしてくれ」
「はははっ」
嬀穣はもう片方の結びかけの髪をぼりぼりとかきます。空には土煙がわずかにかかっていて、濁った青空が見えました。
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