第276話 旧世界の魔法

及隶きゅうたいの見た目は子供ですが、その正体を嬀穣きじょうは知っています。伊摯いしが及隶のことを子履しりたちに説明しているところももちろん陰から見ていましたが、実はその前‥‥伊摯が商丘しょうきゅうを発つ前にその正体を知るよりも、すっと前から知っていました。


「殺すしかないだろう。いや、殺すでは済まない。魂を滅してやる」

「へえ。最近の幼女は進んでいますね。生死のことわりを操れる者は限られているのでしょう」

「お前ももちろん知っているのだろう。私が誰なのかを」

「何のことやら」


嬀穣は笑いながら、及隶の様子をうかがいます。そして片脚を一歩後ろへ動かしますが、それを及隶は咎めます。


「言っておくが、この一帯には結界を張っている。逃げることはできない」

「へええ‥‥一体私が何をやったと言うんでしょうね」

「分かってて聞いてるのか?お前は私の計画を滅茶苦茶にしたのだ」


そう言って、及隶は指を1本立てます。


「まず1つ。お前ははいの地から姒摯じし任仲虺じんちゅうきが楽に逃げられるようにした。本来の計画では、の兵と戦い死にかけた任仲虺を姒摯が助け、土の中を潜って逃げるはずだった」

「同じ逃げることに変わりはないでしょう」

「そこで任仲虺はいちど臨死を体験するはずだった。魂が少しでも体から離れれば、代わりにこちらが用意した魂を入れる余地があったのに、お前はその機会を潰した」


そして、指を2本立てます。


「次の1つ。お前は陽城ようじょうで姒摯たちを大通りに誘導し、劉歌りゅうかに会わせた。本来は大通りの手前にもう少し死体の少ない道があり、そこを通るはずだったが、お前の一言で姒摯たちは大通りに注意を向かせた。ここで賊が現れ、姒摯にも同じく臨死を体験してもらい魂を入れ替えるはずだった。だが、お前はその機会も潰した」

「ただ都市を歩いていただけなのに、言いがかりもいいところですね」


及隶はまた、指を3本立てます。


「最後の1つ。お前は崇山すうざんで姒摯を劉累りゅうるいに会わせ、そしてあの『禁断の門』を見せた。あの門は決して見せてはいけないものであったのに、お前は私の放った2人の賊をただ1人で止め、残りの人を廟に集中させた」

「へえ、あれは『禁断の門』というのですね、知りませんでした」

「お前以外にも、協力者がいるのだろう」


2人の間に、沈黙が走ります。


「‥‥協力者とは、何のことでしょう」

子履しりも臨死を体験することで魂を入れ替える手筈だった。こうの魔法というのは厄介で、一歩間違えれば『旧世界の魔法』が漏れてしまうおそれもあった。だから慎重を期して、子履の魂は私の作った薬を飲ませて昏睡している間に入れ替える予定だった。だが、その子履が期日までに現れなかったうえに、別の薬が子履を治してしまったために私の薬は役に立たなくなってしまった。いや、単に治したわけではない。あの薬が子履の意識に働きかけて使わせた『旧世界の魔法』の効果が周囲の姒摯と任仲虺にも及び、今後臨死状態にあっても魂の入れ替えを不可能にした。こう(※神様)の力を超えるほどの魔力を引き出す薬を作れる奴に、心当たりがあるだろう」

「皇の力を超えていたら、それはもう皇じゃないですか。そもそも、臨死状態にするよりも殺してしまうほうが簡単じゃないですかね」

「お前も分かっているはずだ。夏后氏かこうしは革命によって追い出されなければならない。そしてその革命ができるのは、あの3人しかいないのだ。あの3人以外だと歴史が狂ってしまう。だからあの3人が邪魔であれば、魂を入れ替えるしかない。特に2人はあの腐った世界の記憶が残ってしまっていて、芯がない。言うことも綺麗事ばかりで中身が伴わない。そのようなものを国のトップに置いても、永遠に革命をしないどころかこのままではしょう自体が滅ぶ。正直、最悪の人選ミスだ。だからあれを選んでしまった私が責任を持って、魂をそっくり入れ替えなければならない。それをお前たちは邪魔したのだ。皇のおこないを邪魔する者は、死に値する」


それを嬀穣は聞いていましたが、のんきに腕を伸ばしています。及隶が獣のような目でそれを睨むと、嬀穣はくすりとほほえみます。そして‥‥懐から取り出した眼鏡をかけます。自分の三つ編みの髪の毛をほとぎます。

ぼさっと広がる髪の毛は、この世界の文明とは似ても似つかわしくないほど、赤橙に輝いていました。


「‥などともっともらしく言ってるけど、要は自分の思い通りにいかない奴をぶっ殺すってことで合ってるん?それが皇のやり方か」


嬀穣は壁に背中をあずけて髪の毛をぼりぼりかきながら、及隶をぎろりと睨みます。


「本性を現したな。嬀穣。『旧世界』の生き残りか」

「やれやれ、そうなると私の父上まで殺されちゃうね。ひとつ訂正させてほしいな。私は生き残りではない。『旧世界』の人間だったという前世の記憶を受け継いで生まれたんだ」

「そのわりには『旧世界の魔法』が使えるのだな」

「この世界の人達は知らないけど、実は誰でも旧世界の魔法が使える。たったひとつ理解していればいいんだ。この世界の魔法に、五行ごぎょうはそもそも存在しないということをね。そうだろう?」

「‥‥矛盾はしない」


そう言い終わるやいなや、及隶の体がふっと消えます。

後ろか。

嬀穣は魔力を込めた回し蹴りを食らわしますが、そこには誰もいません。残像が見えたので、はっと上を見上げます。


雷地獄サンダー・ドラゴン


雷が無数の槍となり、細い槍となり、轟音をあげて突っ込みます。

嬀穣は足に力を込め、くるりと飛び跳ねます。風を切る薙刀のように体を回転させ、地面に衝突する雷の轟音と衝撃に挟まれるような隙間を見つけて割って入ります。

動きにくい漢服を嬀穣は脱ぐこともせず、むしろ体から離れないように襟をしっかり掴んでいます。


「余裕だね。そんな服だと動きづらいだろうに」

泰皇たいこうこそ、真の力を隠しているのだろう」

「やれやれ、そこまで知っていたのか」


ここは結界の端に近いです。正面から迫ってくる及隶を強行突破するしかありません。嬀穣は瞬時にそう判断して、はやてのように脚を動かします。

目の前に、黒い閃光が迫ります。嬀穣は飛び上がるとそれに背中を半分見せて、呪文を唱えます。


その空間が爆発します。

轟音が土をかき乱し、建物の壁にひびを作ります。雲のような土煙が視界を奪います。


音を立てずに、後ろへ回ります。

及隶の無防備な頭が見えます。

そして、手を上げます。

好機です‥‥嬀穣はそれを振り下ろそうとし‥‥その手首が後ろから誰かに掴まれているのに気づきます。


「やめろ。お前では泰皇に勝てない」


土煙が晴れます。目の前にいたはずの子供くらいの大きさをした黒い影は、土煙と一緒に揺れてなくなります。


「‥‥真人」


嬀穣の手首を掴んだのは、他ならぬ、広萌真人こうぼうしんじんでした。


「‥‥いやあ、最初から負けるのは分かってたんだよ。どうせ殺されるなら少しでも殴りたいと思っただけさ」

「旧世界の魔法は確かに強力だし、前世のお前もそこそこの使い手だったが、皇の体に触れるわけがないだろう」

「ははは‥‥悔しいねえ」


そんな2人の前に立ちはたかった及隶は、しかし、その顔はもう戦いのそれではありませんでした。不敵な笑みを顔に浮かべます。


「さすがに2対1は分が悪いな」

「いや、その姿のせいで力が出ないのだろう」

「何のことだか」


及隶はそう笑ってみせて、そして次の一歩を踏み出すと同時にふっと姿を消します。


「毎回思うんだけどさ、どうして泰皇をほっとくん?体が小さくて本来の力を出せないと何度も聞いてるけど。やっつけるなら今でしょ」

「理由がある。お前には想像もつかないような理由だ。決して見逃しているわけではない」

「ふうん」


嬀穣はそこでやっと、ぼさぼさで乱れた髪の毛をまとめ始めます。三つ編みは時間がかかるのです。


「手伝おうか?」

「わりい、じじいは苦手なんだ」

「前世を思い出してから、年上に容赦がなくなったな」

「はははっ。『旧世界』にはじじいを敬う教えはなかったんだ、大目に見てくれよ」


片方の三つ編みを結びきった嬀穣は、「ふう」とため息をついてそばの壁に尻をくっつけます。


「なあ、うちって命を狙われてることになんないか、もしかして」

「そうだな」

「うちを見殺すん?」

「まさか。そうはいかない。わしがしょう伯に姿を見せる日が早まっただけだ。岐倜きてきとも折り合いをつけなければならない」


その名前を聞いて、嬀穣きじょうは天を仰ぎます。


「あの男色ちゃんが好きなんだ?真人は。岐倜はともかく、真人は人間じゃないんだろ?」

「それは言わない約束にしてくれ」

「はははっ」


嬀穣はもう片方の結びかけの髪をぼりぼりとかきます。空には土煙がわずかにかかっていて、濁った青空が見えました。

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