第277話 遂の國の料理人(1)

「切れ味が悪いわ、ぎなさい。なまけないの」


あたしはひたすら、包丁の刃を研いでいました。右上からは怒声が響きます。


「この千切りは何なの?この3枚だけ1ミリ太いんだけど」

「これはアジの三枚開き?ただの二枚開きでしょ」

「調味料の比率がまずいの。水が多いわよ」


包丁を砥石にこすりつけながら、あたしは殴られていました。

殴られるたび、包丁が石からずれます。

でも、これでいいんだ。

あたしは殴られるのが人生だから。

これが普通なんだ。これがあたしの日常なんだ。


◆ ◆ ◆


「あ‥‥」


目が開くという感覚、差し込んでくる光。柔らかいベッドの上に身をうずめている感覚。

夢‥‥でしたね。あたしはゆっくりと、上半身を起こします。


光が差し込んできたとはいえ、まだ早朝です。いつもは鶏鳴けいめいの時刻に起きていたのですから、これは微妙ですが寝坊の部類です。

やばい。あたしはいつも通り着替えます。白い割烹に、頭に布、口にマスク。これがあたしの正装です。その足で厨房に飛び込みます。

昨日は1日中忙しくて厨房に行けなかったので、今日は2日ぶりですね。


「‥‥えっ?」


あたしは厨房の入り口で固まりました。

厨房で働く料理人は、どれも見知った顔ばかりです。その中でただ1人だけ、会ったこともない女性が、真ん中のテーブルで包丁を操っています。

その仕草。包丁さばき。鮮やかな手使い。正確無比に切り刻まれていく食材。

なんだろう、特に根拠はないけど、あたしの背筋が寒くなります。


と、他の料理人がその女性に話しかけます。


「あちらが料理長です、ご挨拶を」

「はい」


その女性は素直に頷いて、それから、ゆっくりと歩いてあたしの前まで来ます。

一歩一歩近づいてくるたび、あたしは自分の脚が震えるのを感じます。

何気ない一挙一動、それが‥‥あたしが長年忌み嫌っていたもののような気がします。気のせいですよね‥‥?気のせいです‥よね。


女性はあたしの前まで来ると、慣れた手つきではいをします。

その名前を聞いて、あたしは、胸騒ぎが的中したことを悟ります。


「昨日料理人として採用された、爽歌そうかと申します。すいの國から参りました」

「今すぐ荷物をまとめてここから出てください」


◆ ◆ ◆


朝廷のない日は、子履しりにとって楽しみでもありました。朝廷のある日は伊摯いしもそれに出席するので、料理ができないのです。つまり休日は朝から伊摯の料理が食べられます。


子履は半分空っぽになったベッドの上で、山から姿をのぞかせる朝日を見ながら思い出します。そういえば伊摯がしょうの國に来た時、伊摯のいる厨房まで足を運んでいました。当時の子履は公子でしたが、今はれっきとした伯です。当時も子履のような身分の高い人が厨房に来たら他の料理人が萎縮して困ると叱られていましたが、今行ったらきっと、さらに困らせてしまうことになりますね。


でもそれを思い出した子履はにわかに、伊摯の料理している姿を見たくなりました。いえ、伯が庶民の仕事する場所に行ったら迷惑です。でもでも、伊摯の頑張っている姿が見たいです。この気持ち、押さえられません。

子履はこそこそと大きなドアを開けて、すぐそばにいた使用人に声をかけます。


「あの‥‥その、庶民向けの服を持ってきてもらえませんか」

「あら、お忍びでしょうか?」

「えっと‥‥そ、そのようなものです」


やがて使用人が2人ほど入ってきて、子履に庶民向けの、いえ、庶民の中でも高貴な商人の着るような立派な服、それでも朝廷に出るような身分の高い人と比べると質素な服を着させます。

いつも伊摯がしているように頭を白い布で結び、マスクもしてしまいます。マスクという概念は前世にもあったので、すんなりつけることができました。


そうして忍び足で、こっそり厨房に近づきます。うん、今の子履は庶民に変装していて、かつ頭を包んでいますから目立たないでしょう。そううなずいて、こっそりと厨房のドアを開けます。


開けてみたらこれでした。

拝している女性の前に立っている伊摯の周りには、伊摯にすがりつくように大量の料理人が懇願していました。


「で、ですから料理長、このパンはその方が自分で焼いたものです。ぜひ食べてみてください。夏帝かていですら口にしたことのないような出来になっているはずです」

「このジャムもその方の作です、ぜひそうおっしゃる前にお口に入れてください!」

「昨日の夕食もお食べになりましたよね?あれもあなたから学んだ人ではありません、このお方がお作りになったのです!」

「このお方は遂伯ですら得られなかった逸材とお聞きします。それがこのような場にはふさわしくないとおっしゃるのでしょうか?」


明らかに普通ではありません。普通に料理しているだけならこのような場面は絶対にないはずだと、素人の子履でもすぐ分かりました。


◆ ◆ ◆


あたしは何人もの料理人たちにすがられて困っていました。でも、目の前にいる人だけは‥‥どうしても許せません。

料理人たちから理由を聞かれますが、前世で虐待されたなんて言えるはずがありません。


「‥‥ここの料理長はあたしです。あたしの命令は聞いてもらいます」

「そうはいっても‥‥このようなお方を追い出すのはもったいないのです」


そこへ、横から1人の庶民風の服を着た人が歩いてきました。さっきいきなりこの厨房に入ってきた子ですね。子供のようですが‥‥。


「何の騒ぎですか?」


子履でした。うわあ。厨房には来るなって言ってたのに‥‥あれ、ずいぶん言ってない気がします。言ったの何年前でしたっけ。子履、もしかして忘れてきちゃったのでしょうか。ていうかどうしてわざわざ今日というタイミングの悪い日に来るんですか。ますます話がややこしくなります。

あたしのところに集まっていた料理人たちはその子供の姿を見て呆然としてましたが、誰かが「へ、陛下?」と言ったのを合図に、あたしから離れていっせいに子履の周りに集まります。


「陛下、畏れながら申し上げます。この爽歌そうかという者は昨日からここにいましたが、たいへん素晴らしい料理を作ることができ、東方(※ここでは商から黄海までの間にある國々をさしている)でも評判なのです。陛下も昨日の料理はお食べになりましたよね」

「昨日の料理ですか‥?あれはが作ったものではないのですか?」

「はい。昨日、料理長はここに来ておりません。代わりに爽歌が作ったのです。そのような料理が作れる者を、料理長が出会い頭に解雇しようとしたのです。これはあまりに理不尽ではないでしょうか」


そこまで聞き終わった子履は、少し遠くからあたしの顔を見ます。あたしは思わず視線をそむけます。


「‥‥摯、今朝は料理を休んで2人で過ごしませんか?」

「‥‥はい」


2日ぶりの厨房が台無しになってしまいました。あたしは他の料理人たちと顔を合わせることもなく、子履と一緒に厨房を出ます。


◆ ◆ ◆


部屋に戻って、子履の差し出してきた紅茶を飲んで、まず気持ちを落ち着けます。


「あたしは前世で虐待を受けていたという話は覚えてますか?」

「はい。プロポーズの時に話してましたね」

「あの女性は、あたしに虐待していた人の生まれ変わりかもしれないのです」

「えっ?」


以前、歩誾ほぎんからその料理人の話をされた時点であたしは感づいてました。その直後に子履と嬀穣きじょうが地面からぽこぽこ出てきたせいで全部忘れてしまってましたけど。

あたしは子履に、あの女性について自分が知っていることをできる限り話します。

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