第143話 妺喜と終古の物語(1)
時刻は少し遡って、朝、
学園の食堂で食事したほうが、代金を支払う必要もなく食べ物も貴族向けに味付けされていておいしいのですが、それでも平民向けの普通の食堂を選んだ理由を妺喜は言いませんでしたし、終古も特に聞いたりしませんでした。ただ、今日は祭りの日だけあって民も出店で買い食いしたがるようで、今日のこの肆はあまり人がいませんでした。せっかくの閑散とした店内なのに、2人とも無言でパンを食べていました。
「‥‥あのな」
と、妺喜が小声で言いました。終古は食事の手を止め、パンを皿に置きます。
「どうしましたか、
「‥‥き、今日は一日中付き合ってくれまいか?」
「僕、午後は予定がございますが」
「それでもよいのじゃ」
妺喜は自分の太ももをもそもそとこすり合います。終古はというとぎこちない笑顔で「分かりました」と返事します。一気に顔を明るくした妺喜は、それでも控えめに「‥‥ありがとうなのじゃ」と返しました。
◆ ◆ ◆
前へ進めないほどではありませんが、それでも向こうがよく見えない、まっすぐ走れない程度には混んでいます。
妺喜は、隣を歩いている終古をちらちら見ます。男の中では低いほうですが、それでも妺喜よりいくらか背の高い終古は、人垣の向こうに並んでいる出店を眺めながら歩いていました。隙ができたので、妺喜はそっと、一枚の紙を取り出します。
『ここではできるだけ長い間一緒にいるのが目的ですから、どのような
そういう伊摯の声が、メモからも浮かび上がってくるようです。妺喜は「うむ」と言って、それから終古を誘います。
「終古、おぬしは読書が好きと言っておったな」
「はい。歴史が好きです。ははは‥喜珠様はどうですか?」
「わらわは恋愛ものをたしなむが、歴史上の人物の恋愛も読むぞ」
「それは僕も読んでいるかもしれませんね」
などと会話していると、ちょうど向こうに本のセールの出店があったので、2人はそこにたむろします。
「この本じゃ」
「なになに、あっ、それは2巻まで読みましたが3巻はまだですね」
「おお、おぬしもこのシリーズが好きじゃったか」
妺喜は少し落ち着いたようで、わりと自然に話せています。一方の終古はまだ頭が全然下がりません。目のやりように困っているらしく、妺喜となかなか目線があいません。
買ったばかりの本を手に持って、人混みの中に混ざって歩きながら終古は、やや前を歩いている妺喜に尋ねます。
「次はどこに行きますか?」
「おぬしはどこに行きたいのじゃ?」
その逆質問に言葉をつまらせて、終古はしばらく声が出せませんでした。
◆ ◆ ◆
『もう付き合っていると思ってる人もいるらしいですよ』
2人きりの打ち合わせの時に、伊摯がそう言っていました。テーブル席で呆然としてしゃべらない妺喜に、向かいの席に座っている伊摯はさらに補足します。
『2人とも直接喋った機会は少ないかもしれませんが、人の目のつくところで読んだり、周囲に話したりしている本の大体の中身は共通していますよ。妺喜様が歴史ものの恋愛小説を読むのと同じように、終古様も純粋な恋愛小説の話題が増えているらしいです』
『そ、それはわらわも聞いたのじゃが‥‥』
『大丈夫です。あとは直接話せるようになるだけですから。それだけでも大成功ですよ』
そう言って伊摯は妺喜の背中をやさしくなで始め‥‥急に『あっ』という声を出して手を止めます。席に戻った伊摯は、何か思い出したわけでもなく、何かを取り出したりするわけでもなく、『どうですか、できそうですか?』と尋ねます。妺喜は少し首を傾げますが、『‥‥うむ』とうなずきます。
『では予行演習をしましょう。あたしを終古様だと思って』
『う、うむ』
そのあといくらか予行演習をやったものでした。
◆ ◆ ◆
世の中には男女のカップルがたくさんあります。カップルたちはみな、付き合う前にこんなにも葛藤したのでしょうか。こんなものに耐えることができる人、あまりに多すぎではないでしょうか。
2人は並んで歩いていますが、2人の間を何人かの男が割って入ってしまったことに、妺喜はいくらか経ってからはっと気づきます。ふと終古を見ます。同時にまた1人割って入ってきていましたが、その人が視界からいなくなるのと同時に、終古が妺喜を見ているのに気がつきました。視線が合うと気づいたのか、終古はまた目を背けます。
すでに2人の間では沈黙が流れています。妺喜は手元のメモを開こうとしますが‥‥開く前にそれをまた懐に戻します。
何のための打ち合わせなのじゃ。何のための練習なのじゃ。
妺喜は、さりげなく終古に一歩、一歩、すり寄っていきます。終古はその分だけ距離を置きますが‥妺喜はそれでも斜めに歩きます。しかし‥終古が人垣にぶつかりそうなのを見て、妺喜は少し距離を置きます。
「‥すまん、少しよろけてしまったようじゃ」
「大丈夫ですよ‥」
そう返事する終古は、暗い顔をしていました。果たしてそれが妺喜と同じ理由なのか、それとも妺喜の意にそわないものなのかは分かりませんが、明らかな嫌悪でないことだけは確かでした。
◆ ◆ ◆
終古の当番の時刻になりました。2人は斟鄩学園に戻ります。
「すごい行列なのじゃ」
妺喜が行列を指さして言いますが、終古が「身分の高い人がいるかもしれないから‥」と言うと、「そうじゃな」と腕を下げます。
「
「蒙山はどのような国ですか?」
「うむ、人は少ないし、斟鄩周辺の邑の半分もない国じゃが、人はみな明るく、お互い譲り合う明るい国じゃ」
その返事で終古は言葉を止めました。終古が何か言いたげにしていますが、妺喜は「わらわも分かっておる。あいつらは
そして2人は出店のカウンターへ近づきますが‥‥
「この行列って、もしかして僕の出店?」
ここで終古がやっと気づきます。バカ長い行列だと思っていたものは、全員がチャーハンの出店に並んでいたのです。
「う、うむ、そのようじゃな」
「いけない、早く行かないと」
「そ、そうじゃな‥‥」
終古のあとを慌てて追いかける妺喜ですが‥‥男女の差です。どうしても距離がくんくん伸びていってしまいますが、終古はなぜかカウンターの手前で立ち止まって、振り返ります。息を切らして追いついてきた妺喜を見下ろして、終古はまた気まずそうに視線をそらします。
「‥‥‥‥‥‥‥‥き、今日は楽しかったのじゃ‥‥」
妺喜はそんな終古を見て、顔を隠すようにうつむいて、少しずつ距離を取ります。伊摯とのメモでは、この出店のお手伝いが終わったあとも物語が続く予定だったのですが‥‥懐の中に手を入れて、何かをくしゃっと握りつぶします。
そうして妺喜は、顔をあげます。精一杯の笑顔です。
「ま、また一緒に遊びたいのじゃ」
そう言うかいなやで駆け出そうとしますが、それを節操のない大声で終古は呼び止めます。
「まっ‥待ってください!!!」
目を丸くする行列客たちの視線を集めながら終古は、深呼吸して、控えめな声をかけます。
「出店が閉まる頃に、また来てくれませんか?」
立ち止まった妺喜は、振り返って「分かったのじゃ」とだけ言うと、すぐに駆け出していきました。
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