第144話 妺喜と終古の物語(2)

すっかり遠くまで走ってしまった妺喜ばっきは、グラウンドの端に立って、長蛇の列を呆然と眺めていました。妺喜もチャーハンの噂は知っています。食べてみたかったのですが、足は動きませんでした。列があまりに長すぎるのです。終古しゅうこは閉店までいるはずですが、今から並んでその閉店までに間に合うのでしょうか。どうしたものかと思案していると、少し向こうの方で、伊摯いしの姿が見えました。声をかけようとしましたが、伊摯は任仲虺じんちゅうきに引っ張られて、あとちょっとで転びよろけそうなくらいの走りをしていましたから、妺喜は何歩か後ろにすさりました。

妺喜のいるところは木を背にしたあまり目立たないところで、まわりに人はいません。伊摯が建物の影に消えたのを見届けると、妺喜はまた歩き始めました。


朝食を食べていたあのみせに、妺喜はもう一度入りました。チャーハンの列を見て諦めた人もいたらしく、その分がこの肆に入ったようで、朝が嘘だと思えるくらいに混んでいました。妺喜はしばらく待ってやっと手に入れた席でメニューを眺めます。自然と手がのびてしまったそれは、朝に終古が頼んだものでした。


それはパンやサラダにシンプルな、フルーツを添えたものでした。朝食としてはいいかもしれませんが、昼食にしては量が少ないです。妺喜は何も言わずに食べましたが‥やはり‥やはり、物足りません。ぼうっと何もない天井を眺め、妺喜はため息をつきます。


祭りのような人混みになっているその大通りには、男女の組もあちこちにありました。目を開けていれば必ず気づいてしまうように、至る所にありました。目を背けられる方法といえば、本を読むしかありません。ですが古本のブースに来ても、妺喜の隣でカップルが本を読んでいました。


「‥‥うん」


妺喜は自分の手前にあった本を手に取ります。后稷こうしょく(※周の始祖)の時代の歴史を紀伝体(※全体の歴史を簡潔に書いた『本紀』、各人物の人生を細かく書いた『列伝』の組み合わせ)でしるした本でした。妺喜にとって興味のある本ではありませんでしたが、自分はこれからこのようなものを好きになるのかもしれません。「ふふ」とかすかに笑って、手に持っていたその本をもとに戻します。


◆ ◆ ◆


空も赤くなりました。客たちが次々と帰っていって、学園のグラウンドはだんだん静かになっていきます。貴族や料理人たちも帰り支度を始めて、伊摯や子履しりたちがあちこちを駆け回ってぺこぺこ頭を下げているのが見えます。

そんな中で、無言でカウンターから中に入った妺喜は、見逃しがないように貴族の顔を1人ずつ確認します。果たしてそこに、終古がいました。終古は伊摯から指示されたらしく、他の貴族と同じように白い帽子、白い服で全身を覆っていました。

その白い服のボタンを1つ1つ外しながら、終古はぎこちない顔で言います。


「行きましょう」

「うむ」


妺喜も緊張していないといえば嘘になります。ですが、この日のために一緒に準備してくれた伊摯のこと、そして自分自身の気持ち。今この時を逃してしまうと、もう二度と同じような時は訪れない。妺喜の中の第六感が、そう言っているようでした。


「まず夕餉ゆうげを食べましょう」

「うむ」


荷物をまとめ終わった終古は、2つのかばんを持っていました。妺喜が手を伸ばしますが、終古は首を振ってそのまま寮へ歩き出しました。妺喜はその後ろについていきましたが、不安で身を押しつぶされそうな気がしていました。


寮の玄関から戻ってきた終古と一緒に、今度は出店で次々と食べ物を買い、歩きながら食べていきます。この日くらいは、マナーの悪い食べ方も許されるでしょうが、さすがに親の目は気になるものですね。肉を歩きながら食べていた終古は、さっと進行方向を斜めに変えます。そして妺喜の手‥ではなく袖を軽くつまんで、早足で歩きます。やっと止まったところで、妺喜は尋ねます。


「どうしたのじゃ?」

「今、僕の父上に似た人がいて‥‥」

「ふふ」


終古は臆病な人です。ですが妺喜にとってそんな終古は、一緒にいて落ち着く人です。元気な人や社交性のある人であれば、控えめで静かで夢小説を書いているような妺喜とは見合わないでしょう。そして読書という共通の趣味もありますし、終古は妺喜の好きな本をよく理解しています。妺喜も、小難しい話は苦手ですが、終古の好きな本なら何でも読める気がしていました。『人を好きになるのに理由なんていりませんよ』といつか伊摯が言っていたのを思い出して、妺喜はまたふふっと笑うのでした。


いくらか歩いているうちに、伊水いすいに着きました。中世ヨーロッパでおなじみ、石や岩できれいに整備されたその広大な川のへりで立ち止まって、2人は水面を眺めていました。月の光を反射して、きらきらに輝いています。


「おぬしの行きたかったところはここか?」

「はい。僕の好きなところです」


周囲の家から出る火の輝きも川を照らしています。しかしそれに負けないように、月が一番美しく、明るく、川を照らしていました。近くにある木も、白く輝いているようです。


「終古」


妺喜は気がつくと、その名前を無意識に呼んでいました。


「どうしましたか」


隣から声が聞こえてきたときに、妺喜は自分の過ちに気づきます。しかし‥一度出したものをなかったことにはできません。妺喜は終古のほうを向きます。いつもは妺喜を避けていた終古ですが、この時ばかりはなぜか避けることもなく、それでもどことなく不安げに眉毛をこわばらせながら、妺喜の顔を見つめていました。

妺喜は1つ、少し長めにまばたきします。


「わらわは終古が好きじゃ。婚約者がいないのなら‥わらわをもらってくれぬか?」


頭を下げないよう、必死で妺喜は首に力を入れていました。手にも自然と力が入ります。一方の終古は気まずそうに、ここに来て初めて妺喜から目をそらします。

やはりダメか。妺喜はグーにしていた手を弱々しく開き、1歩後ろに下がります。


「‥‥‥‥はい。僕で良ければ」


終古がまた妺喜と目を合わせた時、2人は抱擁していました。


◆ ◆ ◆


あたしは無理やり子履の部屋に連れてこられて、ベッドに座っています。


「‥それでは、一緒に寝ましょう。姒泌じひつもいることですし」

「慈悲はないんですか」


向かいのスペースにいる姒泌、1学期に失恋したばかりなんですよね。せめてあたしの部屋にできないんですか。いやそれもダメですけど。あたしと2人きりになるのがまだまだ恥ずかしいのは分かりますが、もっとこう、手心というものはないんですかね。

と思っていたら、ノックののちドアが開きます。妺喜でした。


「‥伊摯」

「はい」


妺喜は何も言わずつかつかと歩いて、それからあたしの手をぎゅっと強く握りました。いえわかります。何も言わなくても、その表情でわかります。どんな顔をしているかは説明するまもなく。


「どうでしたか?」


あたしの問いに、妺喜は勢いよくピースサインを突き出します。


「あいつのほうから言うつもりだったらしいのじゃ。わらわが先に言ったので、邪魔してしまったようじゃ、ははは」

「よかったです。おめでとうございます!」

「うむ、おぬしには感謝しているのじゃ」


妺喜はそう言って、足早に部屋を出ていってしまいます。すぐ横に子履が座ります。


「はいはい。あたし、百合に興味はないので」

「一緒に寝ましょう」

「はいはい」


こうやってあたしは子履と一緒のベッドで寝ます。本当は一緒に寝たくないんですよね。


‥‥‥‥でも、今夜くらいはいいでしょう。妺喜の恋愛も成就したようですし、思い残すことはありません。だってあたしがこの寮で寝るのも、これが最後なのですから。

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