第145話 夜逃げしました

あたしは今、馬車の中にいます。外は早朝というか、まだ鶏鳴けいめいの刻ですらない未明です。そして馬車の中には、あたし、その膝の上で小さい布団をかぶってくっすり寝ている及隶きゅうたい、そして向かいの席には法彂ほうはつが座っています。この3人だけです。


「寒いですか?」

「いいえ、頂いた厚着は申し分ございません。法彂様こそお寒くないですか?」

「いえいえ、僕はこれで十分ですよ」


馬車のからからという車輪の音に包まれてわずかな静寂ののち、あたしはもう一度尋ねました。


「ご自分のことを僕と言うのですね」

「あ‥変でしたか?」

「いえいえ、着飾っていない感じが好きです」

「ありがとうございます」


といったぎこちない会話をしています。もちろんそんな会話も長続きはしません。あたしは及隶の頭をなでながら、窓の外を眺めていました。昨夜はあれだけ賑やかだった斟鄩しんしんの街ですが、今はみんな疲れて寝てしまったのか、そして衛兵すらも酒を飲みすぎて寝てしまったのか、誰もいません。本当に誰もいません。祭りといえばどうしても酒が入るので、みんな眠ってしまうのです。祭りの翌日あたりがチャンスだと法芘ほうひにアドバイスされたので、それを忠実に実行したまでです。


「法彂様はよくお酒をお飲みになりませんでしたね」

「はい。昨日一日、父上に閉じ込められておりました」

「法芘様‥‥あっ、お義父とうさまはそういうところに限ってしっかりしておられるのですね」

「あはは‥‥」


お互い苦笑いします。この関係もつい先日決まったばかりで、ぎこちないです。前世日本では、いいなずけという言葉にあまりピンときませんでした。お互い望まれていない結婚、本来の恋愛を手放さなければいけない悲哀、ロマンスものとして、娯楽の1つとしか考えていませんでした。それが今、現実にあるのです。といっても今はまだ『演技』でしかありませんが、本当に恋をしたのならそのまま結婚していいことになっています。なのでこうして、お互いに可能性がないか探り合っています。前世で例えると、お見合いのようなものです。

お見合いといっても、結婚の前に何度か面合わせします。あたしにとって法彂はまだお見合いの第1段階を通過した程度ですし、相手にとってもそうでしょう。あとはデートや共同生活を重ねて、お互いの理解を深め、最終的に結婚の可否を判断することになるでしょう。


おっと、急に馬車が止まります。


「大丈夫ですか?」

「大丈夫です」


といった短いやり取りのあと、法彂は後ろを振り返って御者(※馬車の運転手)、そして前方を確認します。あたしも覗き込みます。‥‥と、そこに1人の大人の女性が立っていました。

酔っ払いの迷惑行為というやつでしょうか、と思ってふとその顔を見てみると‥‥知っている顔でした。務光むこう先生でした。


「なんとかどかせます」


そう法彂は言いますが、あたしは制止します。


「いいえ、あたしの知っている人です。あたしが行きます。たいを見てください」

「分かりました」


そう言って分厚い服を脱いで外套がいとうに着替えて馬車を降りたあたしは、務光先生にはいします。それにしても馬車の外側から中にあたしがいるというのは分かりづらく、しかも普段着ない厚着までしているのによくわかりましたね。


「どこへ行くのですか?」


開口一番がそれでした。見上げると、務光先生は苛立っているようでした。


「北の方でございます」

「どこかの都市に行くのですか?」

「‥はい」

「2学期はまだ終わっていません。あさっても授業がありますよ」

「‥はい」


あたしの返事を聞くと務光先生はふうっとため息をつきます。


「主君のもとを無断で離れるのがどれだけ不忠なことか分かりますか?」


あたし、子履しりを主君だと思ったことはないんだけどな‥‥。でも表面的にはそういうことになっています。ですがこのあたりの理屈をこだこだ並べても逆効果でしょう。

あたしが答えないので、務光先生はさらに質問を浴びせます。


「あなたは一生、この罪を背負って生きていかなければいけません。その覚悟はありますか?」


この世界では主君を裏切るという行為はとても嫌われています。英語で言ったらアンライク、というような生易しい話ではありません。ヘイトです。嫌悪です。もちろん優しい人も多いですが、これから先の人生にもこの話がついて回って、不利になることもあるでしょう。

そのことは法芘にも何度も説明されました。でもあたしはそれを押して、決意しました。あたしの決意は固いのです。


「はい」


これは、1年以上もの間子履と一緒に過ごし続けて得た結論でもあります。あたしと子履が出会ったのは去年の初夏でした。あの時から子履はずっと、百合に興味もないあたしに強引にくっついてきて、はた迷惑でした。飛行機、いや、ロケットで逃げ出したいくらいですよ。しょうに料理人として仕えるだけなら構わないのですが、あたしは平民として気楽に暮らしたかったですし、しかも子履と女同士で結婚しろと言われるといやになるものです。毎回ぺったんぺったんくっついて、少しはあたしの気持ちも考えろっつの。

あ、先生の前で愚痴っぽくなってしまいました。と思って先生の顔色をうかがうと‥‥少し何かを考えているようでした。あたしはそのまま立ち上がってしまいます。


「恐れ入りますが、あたしたちは急いでおりますので手短にできないでしょうか」

伊摯いし

「はい」

「商の国が嫌いなのですか?」

「いいえ」

「商の人と何かトラブルでも?」

「いいえ」

「料理人としての給与や待遇に不満は?」

「どちらかといえばありません」

「学園で嫌なことがあったのですか?」

「いいえ」

「主君以外とトラブルは?」

「いいえ」

「主君と喧嘩でもしたのですか?」

「いいえ」


その問答が終わると務光先生はふうっとため息をつきます。あたしが「そろそろよろしいですか?」と小声で尋ねると、務光先生ははっきりとあたしの目を見ます。


「自分の気持ちに気づいたときには何もかも手遅れ、ということもありますよ」

「えっ‥」

「それではよい休暇を」


務光先生は、馬車とは反対側のほうへ歩いていってしまいます。あたしはそれを呼び止めようとしますが‥‥はっきりと、思ったことを言葉にできません。

‥‥いいえ、行きましょう。早く行きましょう。あたしはもう一度、馬車の中に乗り込みます。法彂が号令を出すと、御者は馬をまた歩かせます。馬車が進みます。北の方、げんという都市へ向かって進みます。そこに法芘の弟の家があるのです。そこで部屋を借りて法彂と同居することになっています。


「本当に未練はないのですか?」


法彂がこう尋ねます。確かに子履や商に未練がないといえば嘘になります。子履と一緒になったおかげで任仲虺じんちゅうき姚不憺ようふたん、そして妺喜ばっきにも出会えました。斟鄩しんしんに来て、楽しい時間を過ごしました。ですがそれでも、あたしは子履との婚約を解消することはできませんでした。だからこうして夜逃げして、子履の束縛から逃れなければいけないのです。

あたしは百合好きではないです。恋愛するなら男です。男一択です。男以外に何があるんでしょうか。あたしは頑固ですよ。


「ありません。あの人とは一生の別れになるでしょう」


そう言ってあたしは法彂から及隶を返してもらって、自分の膝に乗せて優しく背中をなでました。

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