第146話 原に向かいました

子履しりと初めて出会ったのは、あたしがしんの屋敷で働いていたときです。姒臾じきと婚約したくないと言って逃げ出して草むらに隠れていた子履を、あたしが見つけました。そのときにあんなことを言わなければ、こんなことにはならなかったでしょう。

あたしは貴族に憧れはありませんし、むしろ忌避しています。貴族になりたくないと思っています。それがなぜなのかはうまく言葉にできませんが‥‥次にしょうの王になるであろう子履と結婚なんてしたら、あたしは自動的に貴族になります。現時点でも周りから貴族当然の扱いをされています。確かに貴族は貴族でも王族としての暮らしはマリーアントワネットのように華美とまではいかなくても、平民暮らしと比べると裕福で楽でした。でも貴族には権力争いがありますし、どんなに有能でも簡単に粛清されたりするのです。うまく立ち回ればいいかというと、そういう問題でもないんですよね。貴族になりたくないあたしには、それがとてもいやでした。平民のほうがもっと大変‥‥確かにその通りかもしれませんが、あたしにとっては貴族の裕福な生活が一瞬で終わる残酷さがどうしても受け付けられないのです。平民なら殺されるだけでいいんですが、貴族は恐ろしい刑を受けたり、汚名を着せられて後世まで笑いものにされたりするのです。

子履が嫌な理由はもう1つあります。あのまま商にいたら、あたしは女同士で結婚しなければいけないのです。あたしは男と恋愛して結婚して、子供を作って平民のまま幸せになる、普通の生活を送るはずでした。それを子履が全部ぶち壊したんです。あたしは子履のことを女としてみていますが、それは性的な意味ではありません。子履も普通の女の子のように体臭が‥‥ごめんなさい、子履はこまめに体を洗ってましたね。口臭も他と比べるとほとんどありません。とかくに子履は清潔ですから、あたしは気がつくとふらふら寄り付いてしまうほどで、‥‥いいえ、何でもありません。子履とは女友達として付き合うことはできますが、結婚相手として寄り付かれたり、ましてやキスやセックスを求められるのは無理です。


あたし、このまま法彂ほうはつと結婚して、平民として静かに暮らしましょうか。法彂も貴族の子ではありますが貴族として何かをする予定はなく、将来の夢は旅人か商人らしいのです。あたし、妻として一緒に過ごすのも悪くはないかもしれません。


ところでこの世界に橋というものはありますが、さすがに大きな川にかけられるほどの技術はないです。斟鄩しんしんからげんへ行くには、(※黄河)を超える必要があります。というわけで船に乗ります。馬は船に揺られて川をわたるのがとても苦手なので馬車と一緒にえきにあずけて、代わりの馬や馬車は川を渡ったあとに向こう側の駅からもらいます。


「今後、また斟鄩に戻るかもしれませんよ?」


斟鄩を出発してから2日目に河に着いて船に乗りました。木造の船のデッキで、離れていく南側の岸を眺めていたあたしに、法彂が後ろから声をかけます。


「そうですね。あの人がいなくなったらあたしも同行します」


あたしはそう言って、胸に抱いていた及隶きゅうたいの頭をなでます。が、及隶はどこか不機嫌そうです。


「センパイ、商の国にはもう戻らないっすか‥‥?」

「うん。戻らないよ。二度とね」


そう言って、あたしは及隶を床におろします。


「どうしてセンパイはそんなにお嬢様のことが嫌いなんすか‥?」

「何度も言ったでしょ。あたしは百合に興味ないから」

「そう‥っすか」


及隶は肩を落としてとぼとぼ歩いています。及隶なりに商の国が気に入っていたらしいですけど、ごめんね。


「どうしてもって言うならたいだけ商の国に戻すけど。それとも莘のほうがいい?」

「‥‥隶はセンパイと一緒にいるっす」

「そっか」


なんかあたしが振り回したみたいになっちゃいましたが、及隶も結局は一緒にいてくれるらしいです。仲間がいるのは心強いです。うん。


◆ ◆ ◆


あたしがいなくなって2日目の斟鄩学園では、やはり同級生たちが大騒ぎしているようでした。


「それでは、あなたたちは何も聞いていないのですか」

「はい。伊摯いしはしばらく休むと言ってました」

「そうですか‥‥」


キッチンの入り口近くで、頭に白い布を巻いている歩瞐ほばくと話した子履はため息をついて、「ありがとうございます」とだけ残してバイト先のみせを出ます。

道に出ると、任仲虺じんちゅうきが待っていました。


「どうですか?」


子履は黙って首を振ります。任仲虺が馬車に乗せようと背中を触りますが、子履は「背中は触らないでください」と体をよしらせます。


仲虺ちゅうきは何か見つけましたか?」

「いいえ」


馬車に乗り込んだ子履はすぐに顔を手でおおって、わんわん泣き始めます。

馬車の車輪が転がり、揺れるようになっても、子履は窓の外など見ず、ただ頭を下げて、声を枯らして泣いています。


「私が何か至らぬことをしてしまったのでしょうか‥‥」


任仲虺は、ただそれを眺めていることしかできませんでした。任仲虺にも心当たりがあります。どうせ伊摯が逃げることはないだろうと、子履とくっつけようとして何度も意地悪をしていたのです。任仲虺は子履の親友で、伊摯とどちらが大切かといえば子履です。しかしその子履を喜ばせようとしていたずらした自分の因果かもしれません。

平然を装って窓の外を眺めるものの、やはりすぐに子履が気になります。空では憎いほどきれいな青空が広がっていました。


学園中は探し回りました。伊摯が入ったことのないはずの食堂の厨房も荒らし回り、念のために井戸の水を魔法で抜いた上で中を姚不憺ようふたんに見てもらったりもしました。他にも何人かの同級生が、学園中の探索を手伝ってくれました。それでも伊摯を発見できなかったのが昨日です。

肩を落として寮の玄関に戻った2人に、妺喜ばっきが駆けつけてきます。


「見つかったか?」

「‥‥いいえ」


子履はやっとの思いで声を絞り出すと、そのまま廊下に入ってしまいます。任仲虺は玄関で立ち止まって、妺喜のかたわらに残っていました。


「‥‥さんの机は探しましたか?」

「探したのじゃ」

「ベッドも?」

「うむ、探せるものは何でも探したのじゃ。じゃが変な記号の並んだ紙しか見つからんかった」


任仲虺はいったん歩きかけますが、すぐに戻ります。


「その変な記号とは?」

「うむ‥ひょろひょろした、今まで見たことのない記号じゃった。それが文字(※漢字)と混ざって書かれておる」

「それを今すぐ見せてください。わたくしはさんを呼んできますので」

「うむ」


◆ ◆ ◆


河の向こう岸に着きました。今まで来たことのない、河の北です。特に畿内きない(※ここでは首都の斟鄩周辺)の周辺は河內かだいともいい、ここは河の北かつ畿内近くですから、河北かほくとも呼びます。


「お嬢様に置き手紙をしたり、誰かに伝言したりしたっすか‥?」


地面を踏んでいくらかしたころに、及隶が心配そうに尋ねてきました。


「大丈夫だよ。置き手紙はちゃんとしてあるから。生理的に無理、二度と会いたくないって書いておいたから、きっと追ってきたりはしないはずだよ」

「きつい文面っすね‥」

「恋人を振る時は、あれくらいきつく言わないと相手がいつまでも追いかけてくるからね」

「‥‥相手がお嬢様でよかったっすね」


前世で女友達から散々言われたことです。えへん。でも確かに、相手が子履でよかったというのは、あたしも思います。他の貴族だったら捕まって厳罰に処されたかもしれません。相手が子履だから気を許してしまってきつい表現にしすぎたかもしれませんね。‥‥いえ、気を許すとか、そういうのではなくてですね。

あ、手紙、日本語で書いてしまったかもしれません。‥‥まあいいや。どうせ読むのは子履ですし。

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