第147話 法芘の弟の家に着きました

やがて伊摯いしの部屋にたどり着くと、テーブルには妺喜ばっきが座っていました。子履しりはその向かいに駆けて座ると、息を荒くしたまま妺喜の手元にある紙を奪い取るように取ります。


「‥それが伊摯の置き手紙なのじゃ。暗号のようなもので書かれておる」


妺喜の説明はすでに分かりきっています。子履は返事しませんでした。任仲虺じんちゅうきが隣から覗き込みますが、首をひねっています。

子履は手紙の両端をつかんでぼろぼろ涙を流し、やがて手紙をテーブルに叩きつけます。


「‥のばか。黙っていなくなるなんて。私はこんなにも摯のことが好きだったのに‥」


漢字と変な記号の入り混じった暗号文を子履が一発で解読したことは明白です。2人ともそれに興味が無いといえば嘘ですし、むしろ興味の塊です。今すぐ聞き出したいのを押さえて、任仲虺が声をかけます。


「部屋に戻ってお休みになりますか?」

「‥そうですね」


妺喜が手紙を丁寧に折りたたんで任仲虺に持たせます。子履は任仲虺に肩を持たれて、部屋を後にしました。


◆ ◆ ◆


あたしたちは馬車に乗って、げんという都市へ向かっています。はこれまでうらないの結果に従って頻繁に遷都しており、原もその1つです。車窓を見ると、少しずつ整備された畑が増えているのが見えます。


様、畑が増えてきましたよ」


しかしあたしのつぶやきに返事の声は返ってきません。おかしいと思って振り返ると‥‥隣の席には及隶きゅうたい、そしてはす向かいに法彂ほうはつがいました。あ‥ああ、そういえばその子履から逃げている最中でしたね。


「‥ここにしょうの人はいませんよ」


法彂がおそるおそるながらも冗談めかして言うと、あたしはわざとらしく笑ってみせます。


「そうでしたね、ははは」


と、ごまかすように及隶の頭をおもいっきりくしゃくしゃなでます。及隶の髪の毛がめちゃくちゃになったので、膝の上に乗せて頑張って元に戻します。ごめんね。


なんだかんだ話していると、原の都市部に入りました。馬車が大通りからそれて、曲がって、曲がっていきます。


「あの突き当りに叔父上(※本作では叔父は父の弟、伯父は父の兄と明確に使い分ける)の屋敷がございます」


場合によってはあたしのついの住処になるかもしれないそれは、法芘ほうひの家ほど豪華ではありませんでしたが、それでも立派で人並みの屋敷をそなえていました。西洋建築ならではの草原のように広い庭を進んで、白い2階建ての建物のロータリーに到着します。

叔父らしい男性と家族たちが出迎えてきましたので、あたしたちは馬車から下りて、ゆうします。


「法彂でございます。ただいままいりました」

「ああ、兄上から連絡はもらっているよ。久しぶりだ。よく来たね。その子は女だろう」

伊摯いしでございます」


法芘のいいところといえば明るいところ、気さくなところだったのですが、そのいいところだけを持ってきた感じの雰囲気をしていました。法芘もこんな感じだったらいいんですけどね、どこで道を間違えたのでしょう。


「私は法芘の弟で、鄧苓とうりょうです」

「‥あれ、姓が違いますね」

「はい。以前、短い間ですがとうの国(※こう(のちの長江ちょうこう)の支流である漢水かんすいのほとりにある国。斟鄩しんしんのはるか南で、襄陽じょうようのすぐ北に位置する。現在の河南省鄧州市)の伯をしていた頃があり、そのときに鄧氏を名乗りました。今はやめさせられましたが、これは一時的なものだと言われておりますので、氏は戻していません」


あらら、伯って一代で簡単にやめさせられてしまうこともあるのですね。ちなみにこの世界では、自分の名前の姓は親から受け継ぐのが基本ですが、氏のように家の近くにある川の名前からとったり、氏やちょう氏のように治めている国の名前からとったりする場合があります。鄧苓もそれですね。(※史実ではこの時代は姓と氏の区別が明確になされていたが、この世界では混合されているものとして扱う。例えば伊摯の伊は正確には氏だが、本作では姓として使われている)


「それではあちらへ」と言われるがままに通されます。鄧苓は2階で事務をしているらしく、あたしと法彂は1階の奥の方にある部屋を借りました。あたしは、今はなき鄧苓の3人目の娘がいたという部屋を借りました。


「初対面ですが、夕食のときにぜひ語りましょう」

「はい。ぜひ‥‥ああっ」

「どうかしましたか?」

「その夕食ですが、私も料理をお手伝いしても?」


鄧苓は一瞬「えっ」と驚いていましたが、「はい、いいですよ。厨房には、私から許可をもらったと言ってください」と快諾してくれました。あたしの荷物の中でも軽い本数冊を持ってきてくれた及隶は、「ここに来てまで料理っすか‥」と少し呆れていました。

一通り荷物を置いたら厨房に直行です。えへへ。


◆ ◆ ◆


食事のために集まった部屋はさすがにしょうほど大きくはありませんでしたが、それでもあたし、及隶、法彂、鄧苓、そしてその長男と長女を集めるには十分でした。あたしの料理の話題、斟鄩の話など、いろいろな話で盛り上がります。わりと盛り上がります。来てよかったです。


「他に作りたい料理はなかったかい?」


話の過程で、鄧苓にこう振られました。


様の好きな桃を使った料理をしたかったのですが厨房になかったので、今度買いに行きます。あっ、買い物もよろしければあたしにお任せください」


とあたしが言うと、一気に空気が止まります。あれ?あたし何か変なこと言いましたか?と思って見回します。すると法彂がわざとらしく笑います。それにつられて、周りの人たちもなにかぎこちない笑い方をしています。さっきまであれほど仲良さそうに、楽しそうに話してくれていたので、一気に気まずくなった感じです。


「ど‥どうされましたか?」

「あ、ああ‥買い物のことは料理人に言っておきますよ。どんな料理が来るか楽しみです。料理人とはうまくできそうですか?」

「もちろんでございます」


鄧苓もそう優しげに応じてくれました。うう、あたし変なことを言ったのでしょうか、でも周りはひとつも指摘してくれません。やっぱり他人の家だからなのでしょうか。

そうやって話しているところで、あたしは何気なく横を見ます。‥‥えっ?及隶が座っていたはずのその椅子は、空席でした。及隶、いつの間に部屋を出てたんですか!?あたしが見ていないといけないのに。


「どうしましたか?」


あたふたするあたしに、鄧苓が声をかけてくれます。


「ああ‥及隶がいなくなったので、探しに行こうと」

「分かりました、案内役をやりますので、一緒に探してください」

「ありがとうございます」


使用人を1人もらって、あたしは屋敷の中を探し始めます。


◆ ◆ ◆


必死に探すあたしを窓の外から眺めて、屋敷の裏手の庭の茂みの中に隠れるように、及隶の姿がありました。


「やっと着いたか」


そうつぶやいて、及隶は後ろを振り返ります。そこには、一匹の鹿‥‥というにはあまりに大きい、真っ白の獣がありました。


<ああ。少し遅れた>


「子履の様子はどうだ」


<悲しみに暮れている。食事ものどを通らぬ。放置すると痩せるだろう>


「そうか。わかった。索冥さくめい


茂みより身長の低い及隶は、屋敷の窓を念のために再確認します。そんな及隶に、脚で顔をかいていた索冥が後ろから声をかけます。


姒摯じしはどうする>


抗夏こうか(※夏と戦う、抵抗する)は子履でないとできない。またその子履を補佐できるのは、姒摯だけだ」


<と、いうと?>


「姒摯を斟鄩に連れ戻す。索冥は子履に、ここまで来るよう手配してくれ」


その及隶の言葉に、索冥は頭を下げてわずかに後ろへさがります。


「ためらっているのか?」


<ああ。無理矢理連れ戻しても意味は無いのではなかろうか>


その索冥の返事に、及隶はまたふふっと笑います。


「心配はいらない。姒摯もいずれ、自分の運命に気づくだろう」


その及隶の目には、屋敷の2階にのぼって必死に廊下を早歩きする伊摯の姿が、窓越しにうつっていました。

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