第148話 悲しむ子履(1)
「さあて!」
と、あたしは腕をまくって作業に取り掛かります。いいえ、ここあたしの部屋ですよ。やっと周囲への挨拶が落ち着いたので、荷物をばらします。あたしが法彂と結婚すれば、ここでずっと生活することになるかもしれないんです。まだ結婚は確定ではないのですが、自分の部屋を作るには結婚を待つわけにはいきませんね。
「今日は天気がよいので散歩を、と思ったのですが‥片付けですか?」
「はい、荷物をおろして部屋を作ろうと思っていたところでした」
「僕も手伝いましょうか?」
「ぜひ」
気軽にこんなことが言える関係ではないのですが、いずれ結婚するかもしれない関係ですからそこはあえてフランクに接します。少し恥ずかしいし抵抗感もありますけど、法彂は次々と積極的に荷物をおろしてくれます。いやー男がいると助かります。えへへ。
「‥これは何でしょうか?」
と法彂が、ひとつの小さいバッグを取り出します。中には布が入っているようで、法彂の持ち上げた手におさまらない部分がよく曲がっています。
「ああ、それはあたしと
あたしはそれを受け取ると、ぎゅっと胸に抱いて笑います。
「学園の夏休み前に一緒にプールに行って遊びました。履様ったらへそを見られるのが恥ずかしくて、わざわざスク水を選んでました、ああ、スク水じゃなくて、こう、なんだろう、体の前面を丸ごと覆い隠すタイプの水着なんです。えへへ、思い出です」
そんなことを言って、あたしはそれを何もない空っぽの机の上に置きます。大切なものですから、棚の上がいいかもしれませんね。そうして箱のところに戻ってみると、法彂も及隶も目を点にしてあたしを見ていました。あたしは首を傾げます。
「‥‥どうかしましたか?」
「‥‥思い出は大切になさるのですね。いいな、僕もプールに行きたいですね」
「はい、ぜひ。来年にでも」
そうやって荷物の点検を再開します。衣服、そして「あっ」
「それは何ですか?」
「これは履様からもらったノートです。文字の練習をこれでしたんですよ。まだ4ページくらい残ってますけど。履様が横に座って字を教えてくれました」
「4ページしか残ってないならいらないのでは?」
「いいえ、大切な思い出ですよ」
と言ってあたしは机の方に走っていきます。そして戻ってみると、法彂も及隶も呆れたようなジト目であたしを見ています。
「えっ、え、あたし何かまずいことでも言いましたか?」
「‥‥よほど思い出にこだわりがあるのですね」
「はい!」
と言ってあたしは片付けを再開しますが、及隶が作業しながら何か言っていました。
「センパイ、周りから天然って言われたことはないっすか?」
「えー?言われたことはないな。
及隶は首を振ります。あたしは少し首をひねりますが、とりあえず手を動かします。
「それとセンパイ、ゆうべ言ってた歯ブラシって何っすか?」
「履様が作ってくれたもので、歯をきれいにするための道具だよ」
「それを隶が持ってるはずないっす」
「ああ、ごめんごめん」
そんなあたしたちの会話に、昨日まで積極的に話しかけてきていた法彂はなぜか何も言ってきませんでした。
◆ ◆ ◆
斟鄩学園では、あたし抜きの9人で授業がおこなわれるはずでしたが。
「今日も
「はい。何度か呼びかけたのですが‥‥」
「‥‥授業を始めましょう」
沈黙して暗く重い雰囲気を無理やり押しのけるように、務光先生が言いました。
授業も終わり、しばらくしたころ、寮に向かった小道を任仲虺と
「‥
そう言ってそっぽを向く姚不憺に、任仲虺は何も言えませんでした。任仲虺には、その原因が分かっています。しかし自分にも責任の一端があります。それに気づいたときから、任仲虺は何晩も思い悩んでいました。親友の子履を助けようとして、結局迷惑をかけてしまったと、空を仰ぎます。
夜逃げするほど思い悩んでいると気付かなかったというのは、あとからなんとでも言えることです。もし叶うなら、もう一度最初に戻ってやり直したい。隣で姚不憺がぶつぶつつぶやいているのを受け流して、任仲虺は寮のドアを開けます。
今は子履をそっとしておきたいのです。子履は今日も、ベッドの上で布団にくるまって丸くなって泣いているのでしょうか。親が死んだときにあれほど泣けるのでしょうか。でも卞隨先生や務光先生から苦言があったことは一言伝えておかなければいけません。伝えるだけ伝えて逃げるのも卑怯ですが、他につける薬が見つかりません。あれほどの悲しみ様も数週間か数ヶ月あればおさまるかもしれませんが、最悪の場合、もしかしたら子履は退学を選択するかもしれません。そうなったら自分にも責任がある以上、なんとかして回避させなければいけません。せめて毎日一度か二度は様子を見に行きましょう。
任仲虺は子履の部屋のドアをノックします。中から「‥‥
妙に光った白い物体、いえ、生き物がありました。
「‥‥供物は?」
任仲虺が尋ねると、子履が代わりに索冥に尋ねます。「いらないようです」と返事があると、任仲虺はドアと鍵を締めて歩み寄って、床に正座します。索冥はあくまで子履のほうを向いていました。
<なぜ
話の途中のようでした。索冥は知っているのでしょう。
「知ったところで私にはどうすることもできません」
子履は索冥から視線をずらして、わざとらしそうにうつむいて答えます。遠回しな拒絶ですが、それでも索冥は動かないようでした。
<会いたいと思わないのか?>
「会いたくありません」
<あいつはお前に会いたがっているぞ>
「そんなはずありません。その気があれば、あんな手紙などよこさないはずです!」
<我の言うことが信じられぬのか?>
索冥がそう尋ねると、子履はまた布団にくるまって黙ってしまいます。任仲虺は立ち上がると、子履の布団を引き剥がします。
「
「嫌です」
「なぜ?」
「私、あの人に嫌われているんです」
パジャマとして使う白い着物にくるまった子履は、任仲虺に顔を見せないように手で覆っていましたが、その所々から涙が漏れていたり、頬が真っ赤になったりしています。むせび泣きも聞こえます。任仲虺がもう一度布団をかぶせると、子履は逆に奪い取るように引っ張って布団の中にこもります。
「わたくしにはあの置き手紙は読めませんでしたが、少なくともあれは本意ではないということですよ」
「私‥‥私、あの人も心の中では私を好いてくれていると思って‥前世から気持ちは変わっていないと思っていて‥‥でも、そうではなかったのです。あの人は私のことをすっかり忘れて、近づいてくる私を本気で拒絶していたんです。前世で恋人だったのに、そんなことにも気付かないなんて私は‥‥私は失格です」
任仲虺は困った顔をします。正直、子履が何の話をしているか分からないのです。でも伊摯に嫌われたと思いこんでいるのは伝わりました。こんな時、伊摯だったらどのような反応をしていたのかは分かりません。
「‥‥実際に摯さんに会ってみないと納得できませんか?会いたがられていることを」
「納得できませんが会いたくありません」
ふうっとため息をついてベッドから降りようとしますが、その時、白いベッドの上にあった白い紙をうっかり押さえてしまったようで、右手からくしゃっという音が聞こえます。見てみると退学届でした。
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