第149話 悲しむ子履(2)

任仲虺じんちゅうきはそれをちらとは見ましたが気に留めるそぶりも見せず、立ち上がると袖をはたきながら子履しりに尋ねます。


さんのいる場所は聞きましたか?」

「知りたくありません」

「では紙にでも書いてもらいますか?索冥さくめいはいつ来られるか分かりませんし、お互い気の変わることもあるでしょう」

「‥‥勝手にしてください」


子履の承諾をとると任仲虺は、子履の机の中を漁って取り出した1枚の紙を「これを索冥に」と言って子履に手渡します。子履はそれをぽいっと投げてから、頭を布団の中に完全に隠します。任仲虺がそれとなく墨汁を皿に垂らして床に置くと、索冥はそれを足でとって書きます。文字は1字のみでした。

索冥が姿を消すと、任仲虺は布団の塊になってしまった子履を見てもう一度ため息をつくと、紙を持って部屋を出ていきます。


◆ ◆ ◆


気がつくと、あたしは走っていました。

高校の廊下、すれ違う生徒や先生には目もくれず、窓からの真っ白な光で照らされる廊下を、脇目もふらずに走っていました。そして階段を駆け下り、ぶつかった人に「ごめんなさい!」と叫びながら下りて、今度はまた廊下を反対方向に走ります。玄関です。玄関に赤い車が止まっています。


雪子ゆきこ!」


今までで一番かと思うくらいに叫んで、その手首を掴みます。

雪子のかたわらにいた、ネックレスをしたそこそこ歳のいってそうな女性が、雪子に尋ねます。


「友達?」


雪子は、首を小さく振ります。


「えっ」


あたしが思わず声をあげますが、雪子は腕を引っ込めます。


「何で?あたしたち、友達だよね?しばらくいなくなったと思ったら、転校の話を進めてたなんて」


これまで何度も2人でお出かけしたときに着ていた服を、雪子は着ていました。あたしの制服が、雪子との距離を作っているような気がして。


「あたしのこと、覚えてる?」


しかし雪子はまた首を振ります。あたしが何か言いかける前に、ぷいっと車に乗り込みます。


「‥‥ごめんなさいね、急いでいるから」


母親と思しき女性も、あたしをちらちら見て気まずそうに言って、車に乗り込みます。その車がどこかへ走っていくのを、あたしは呆然と見送っていました。


雪子、どうして?LINEも繋がらなくなったし。

どうして?この前のお出かけは買い物にも行って、楽しかったでしょ?おそろいのおもちゃの指輪を買って、アイスを食べながら笑っていたでしょ。いつも本屋に行きたがる雪子にしては珍しく、駄菓子屋、衣服店、ゲームセンターとかとかを見回って、フードコートでサラダやパンを食べて、映画を見て、雑貨店にも行って、雪子は嫌な顔ひとつしてなかったじゃん。あたしも雪子も、お互い楽しんでると思ってた。どうして?

どこかまずいところがあったの?雪子は本屋に行きたいのに我慢してあたしに合わせてたの?そんなことない。行きたいって言われたら、あたしは本屋に行くよ。嫌じゃない。雪子と一緒なら、どこへでも行けるんだ。


学校の先生に問い詰めてみます。なかなか教えてくれませんでしたが、ぽつりと「いじめだね」とだけ答えます。そんな。あたし、知らないうちに雪子をいじめてたの?雪子も楽しんでいると思っていたのに。教えてくれないなんて、ひどい。それなら謝るから。土下座して謝るから。許してくれるなら何だってするから。


「そ、そうじゃなくてね、他の子からいじめられてたんだ。靴を隠すとかさ、君の見えないところでされていたんじゃないかな。さ、さ、これ以上は個人情報だから先生も立場上教えられないんだ。ね、ね、そういうことだから」


そう言って、先生は行ってしまいました。

ひどい。何で教えてくれなかったの?言ってくれたら、あたしが雪子を守ってあげるのに。あたしまでいじめられてもいいから、雪子はあたしが守りたい。だって、雪子はあたしにとっては友達ではなく‥‥‥‥友達だよね。何考えてるんだろう、あたし。雪子のためなら何でもやる。


夕日の照らす屋上には、あたしと雪子の初めて出会ったベンチがありました。あたしはそこに1人座っているうちに、目が熱くなって、顔が熱くなって、気がつくとベンチから滑り落ちて、うずくまっていました。晴れの日だというのにびしょびしょに濡れた床を、あたしはただ眺めていました。


◆ ◆ ◆


歯磨きの時はいつも子履の部屋に行っていたのですから、あたしの手元に歯ブラシはありません。頑丈な草を水洗いして糸ようじ代わりにしながら、あたしは庭にあった段座に座って、呆然と朝日を眺めていました。

なぜ子履と一緒に寝たわけでもないのに、あたしはこの夢を見たのでしょう。そんなことも少し頭をよぎりましたが、考えていられる余裕はありませんでした。


気がつくと、草が切れて2つになっていました。今までこんなことはなかったのに。草を切ったことはなかったのに。あたしはその2本の草をぎゅっと握りしめます。涙が止まりません。声も止まりません。

あたしが何で泣いているのか、理解できません。あたしは子履と別れたかった。百合なんて興味が無いので、男とくっついて普通の恋愛をして普通に生きたかった。王族とか貴族とかにはなりたくなくて、平民として平穏に暮らしたかった。それを子履は全部ぶち壊したんです。外堀まで埋めて。だからこうして逃げてきたはずなんです。なのになぜか、あの地獄のような日々にもう一度戻りたい気がして。そんなことを考える自分自身が理解できない。もう理屈なんてどうでもいい。目をつぶります。自分の泣き声が聞こえてくるだけです。あたしはどうして泣いている?教えて。今は幸せなはずなのに、どうしてこんなに悲しいの?教えて。教えてよ。


◆ ◆ ◆


それからしばらくして、あたしは朝食のために屋敷の居間に入ります。見たところ、そこには立派な食事が並んでいました。やれやれ、今日の朝食の準備をすっぽかしてしまいました。自由に休んでよいとは料理長直々に言われていたものの、事前連絡無しはやっぱり駄目ですよね。後で謝っておかなければいけません。いや事前連絡もいらないと言われてたんですけど‥‥とりあえず謝ろうと心に決めます。


「センパイ、さっきまで泣いてたっすか?屋敷の中まで聞こえてたっすよ」


料理を持ってくる女中にまぎれて、身長が低すぎて料理を持たせてもらえなかったのかとりあえず歩いてきただけの及隶きゅうたいに声をかけられます。


「え、えーっと‥泣いてたよ」

「何があったっすか?旦那さまと喧嘩っすか?」

「そんなことないよー、えっとね、ゆうべ怖い夢を見ただけ。大したことはないよ」

「それにしては泣き声が大きかったですが」


と、部屋に入ってきた法彂ほうはつが口を挟んできます。あたしは及隶を拾い上げると、「何でもありません、大丈夫ですよ」とありったけの笑顔でにっこり笑ってみせます。


食事中、法彂は口を挟みませんでした。あたしが「ごちそうさまでした」と言うと、法彂はあたしの顔を伺うように、短く尋ねます。


「帰りますか?」


途端にあたしは思わず及隶を強く抱きしめてしまいます。「苦しいっす」と暴れるので、あたしは「ごめんね」と床におろします。

図星でした。帰りたくないのに、なぜか帰れなくて泣いている。でも、もう決まったことだから。あたしが一生子履と離れ離れで暮らすのは、もう決まったことだから。あたしのたっての要望でしたから。これであたしは幸せになるはずですから。幸せをむさむさ手放すのはいけませんよ。


「いいえ、帰りません。あたしはそんなことを考えたりしませんよ。法彂様、お義父とうさまに会いたくなったらいつでもここを空けて構いませんよ」

「‥‥‥‥はい」


あたしは法彂の返事も聞かずに、椅子から立って早歩きで部屋を出ていきました。

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