第150話 伊摯に会いに(1)

かたんことん。

心地良い揺れを感じて、子履しりは気が付きます。

誰かに運ばれているのでしょうか、いいえ、座っているのは椅子です。目を開くと、子履は馬車に乗っていました。窓からは小さい雲のいくつか混じった青空が見えます。そして、向かいの席には任仲虺じんちゅうきが座っています。


「おはようございます、さん。‥‥もうお昼過ぎでしたね。先程の駅で弁当を買ってまいりましたので、どこかに馬車を止めて食べましょう」


この世界では冷えた食事は嫌われているので、基本的に朝作った弁当を昼に食べるということはありません。すぐ近くのみせで買ったばかりの弁当を冷めないうちに食べるのが当たり前です。ですので、少し前に買って冷ましてしまった弁当は、どこかで火を使って温めなければいけません。

適当な小川のほとりで馬車が止まります。小石の散らばった川のへりで、使用人が木を組み立て、火をおこして燃やします。ここで火を起こすのに使うものは金燧きんすいといって、きれいでぴかぴかな金属を用意して、太陽の光を木に反射します。自然と煙が出て、燃えていきます。その上に弁当を吊るして温めます。その火を、子履は吸い込まれたように見つめていました。


十分に温まった弁当をそれぞれのひざに置いて食べ始めたところで、子履が尋ねます。


「勝手に私を連れ出して、どこへ向かっているのですか?」

さんのところですよ」


子履は一度任仲虺を見てから、また目を背けます。


「帰ります」

「ダメです」

「私はあの人から嫌われているのです」

「そんなこと、会ってみないと分かりませんよ」


今まで伊摯いしに嫌われながらもあれだけ熱烈にくっついてきたくせして何を言うのでしょうか、という言葉が任仲虺の喉元まで出かけていました。子履はまだ暗い顔をして、川の向こうにある林をぼんやりと見ています。


「‥摯が夢に出てきたのです」


今日はやけにおとなしい子履が、不意にこう切り出します。


「摯が何度も戻ってきてと叫ぶのですが、私は黙って車に乗り込みました。‥‥そうですね、前世、私が転校してしまった日のことですね」


子履はたまによくわからないことを言います。一通りこの事件が片付いて落ち着いてから、まとめて聞きましょう。任仲虺はそう考えつつ、冷めないように弁当の中身を素早く口に入れていきます。


「私は摯との連絡手段も断って、引っ越す前の家に届いた手紙も全部捨てて、摯のことは完全に忘れるようにしました‥‥でもそれでも耐えられなくなって、あるとき、思い出のデパートに行ったのです。そこには摯がいて、私が散々連絡を蹴ったのに摯は暖かく迎え入れてくれて‥‥」


任仲虺はすっかり弁当を食べ終えていましたが、食事が冷めるとも声をかけられず、ただ子履の様子を見ていました。


「あの人は、私がどんなに困っていても、苦しんでいても、すべてを受け入れてくれました。私の一部そのものです。私は今までずっと甘え続けていて‥‥」

「甘えていいのなら、甘えましょう」


きっと子履の口に食事を運んでいいのは、この世界で伊摯いし1人だけです。


「もう一回甘えてみて、ダメだった時はわたくしが責任を持ちます。せつの国を継ぐのは姉上でしょうし、わたくしは履さんのために責任をとるなら、この身をしょうに捧げます」

「‥‥‥‥分かりました」


と言って、子履は食事を次々と口に運びます。


◆ ◆ ◆


とは言ってみたものの、あくまで第一希望は伊摯が子履のもとに戻ってくることです。任仲虺は、馬車のうしろに控えさせていた従者を2人呼びつけます。


「次の駅で馬をもらいますので、先にげんまで行って様子を探ってください。名前と顔はわかりますね?」

「はい」


次の駅で早馬をとばす2人を見てから、馬車はまた進みます。

(※黄河)で船を借りて移動し、向こう岸まで着くとそこからまた馬車に乗り換えます。子履はずっと前を見つめていました。


「あの早馬に乗ってみたかったですか?」


任仲虺が冗談半分で尋ねますが、子履は首を振ります。


「いいえ。私は期待半分ですが、不安もまだ半分あります。摯は私のことを迎え入れてくれるかもしれませんが、本当に私に愛想を尽かしたのかもしれません。怖いです。もしかしたら私はまだ、帰りたいかもしれません」


子履は膝の上に置いていた手をぎゅっと握ります。伊摯が子履を求めていると今までに言ってくれたのは索冥さくめいだけです。それは神様だから信じるにしても、本物の伊摯から直接言ってもらわないと心細いものです。任仲虺は、励ます言葉が見つかりませんでした。こんなとき伊摯ならどうするのか、子履と長年の付き合いだったはずの任仲虺にも皆目検討がつかないのです。

任仲虺はため息をついて、向こうに見えるむらを眺めます。


「今回の件は、わたくしにも責任の一端があります。摯さんに意地悪をしてしまいましたから。わたくしにできることなら、何でも致します」

「ありがとうございます」


と、子履は深呼吸します。


◆ ◆ ◆


最後の駅に着きました。ここを早朝に出発すれば、昼ころには原に到着するでしょう。いくら2人は公子といえとも、この駅の設備では簡素な部屋にしか泊まらせてもらえません。2人部屋で子履がベッドに座ってぼんやりしていると、任仲虺はあかいタオルを手渡します。


「これは‥?」

「摯さんの部屋にあったタオルです」

「こんなものを今もらっても‥」


子履はそっぽを向きますが、任仲虺はそれを膝に置きます。


「まだ可能性が残っているのは今だけですよ。摯さんに会ってしまえば、そこに可能性はありません。あるかないかの2つだけです。ですのでここで楽しめなければ、もう二度と楽しめないかもしれないですよ」


子履は「‥そうですね」と目をうるませ、タオルを顔にあてます。


ふと思い出します。任仲虺は知らないのかもしれませんが、商の屋敷で伊摯に風呂を貸した時(※第1章参照)のタオルの色にそっくりです。あの時、伊摯はオレンジ色のタオルを所望しましたが、子履は朱色のタオルを貸しました。


「‥‥このタオルは部屋のどこにありましたか?」

「棚の端に、大切そうに置いてありましたよ」


あの時のタオルは渡していなかったはずですから、伊摯が自分で買ったのでしょうか。あのときの思い出を追ってこの色にしたのでしょうか、それとも偶然でしょうか。もしかしたら夏休みに帰省した時、伊摯の立場も変わっていますから、それでタオルを召使いからもらって持って帰ったかもしれません。でもそれは、子履を感傷に浸らせるには十分でした。ぼろぼろと流れ落ちる涙を、そのタオルが受け止めます。心なしか、そばに伊摯がいるような気がします。

いえ、まだそんなことを考えては‥‥いいえ。いいえ。そばに伊摯がいてくれるのは、明日伊摯と会う時までかもしれません。それでも、数少ないぬくもりにすがっていたい。


そんな気持ちをぶち壊すようなノック音がします。


「偵察のものでございます」

「入ってください」


2人の召使いが部屋に入って、立っている任仲虺にはいをします。


「伊摯の居場所が掴めました」

「どこにいましたか?」

「原にある鄧苓とうりょうの屋敷に匿ってもらっているとのことです」

「鄧苓‥?鄧苓のことは分かりますか?」

「8年前に2年間だけとうの国を治めていたようです」


任仲虺はちらっと子履を見ますが、子履は首を振ります。


「分かりました。それで、摯さんの様子は?」

「はい。あの家の使用人によると、鄧苓のおいの婚約者としてあの屋敷に入ったようです。はじめは挨拶回りや食材の買い出しで動き回っていたものの、ここ数日は部屋に引きこもって泣いているようです」

「他には?」

「いいえ」

「分かりました。下がってください」


2人が部屋を出ていってドアを閉めた頃には、子履は持っていたタオルをぼろりと床に落としてしまいます。


「‥‥摯は、私のために悲しんでいるのですか?」

「そこまでは分かりません」


情報源になった使用人の言うことを信頼できるかも分かりませんし、使用人自身が間違った情報を持っているかもしれません。ということは。


「‥摯さんが鄧苓の甥に騙されて部屋に閉じ込められた可能性もありますね」

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