第93話 姒泌が失恋した理由

結局、あたしは1人で部屋に入ることになりました。任仲虺じんちゅうき子履しり及隶きゅうたいは、部屋の外に控えて中の話し声に耳を澄まします。

案の定、姒臾じきは星の光に照らされたその部屋で、窓辺の壁にもたれて星空を眺めていました。あたしがその部屋の明かりをつけても、姒臾はちらりとあたしを見たっきり、また星空に視線を戻します。


「来たか」

「はい」


これから姒臾はあたしにどのような無理難題を要求するのでしょうか。姒臾は窓の外を見つつ、腕を組みます。


「‥‥あいつに伝言してくれないか」

「内容によります」


あたしの返事に、姒臾は小さくふふっと笑います。自分の立場をわきまえているようです。


「俺はあいつに近づくことはない」

「‥‥えっ?」

ひつに言われたんだよ。俺は束縛が強いから、もっと自由にさせろと」


姒泌じひつ、臆病そうな性格だったんですが意外と伝えたい事をはっきり伝えていたようです。姒臾はこれまで、子履を独占しようとしている様子がありました。それが激しく攻撃的で、子履やあたしには耐えられないものだったのです。その一部とはいえ気づくなんて、少し前進かもしれません。


「俺は男であるからには彼女を守らなければいけないと思っていた。そのためにできる修行は何でもした。だが、そんなものは全部いらないと言われたんだよ。俺があそこまで守らなくても自分で自分を守れるから、もっと女のことを信用しろと言われた。すべてを管理するなと言われた。対等だと思って付き合えと言われた」

「それって喧嘩にならなかったんですか?」

「いや‥‥。俺にとって姒泌は許嫁以上の関係にはなれない。しかいないんだ」

「軽々しく人の名前を呼ばないでください。それに、仮に相手が履様だったら言い返していたんですか?」


あたしはため息をつきます。そりゃあたしももともとは姒臾の父の召使いという立場だったんですけど、今はご主人さまが違います。昔は遠慮して言わないようにしていたことを言えていることに気づきます。‥でもやっぱり身分の差がありますから、あまり出しゃばらないほうがいいでしょう。

しかし、子履の話になったはずなのに、姒臾はなぜかあたしに激しく抗議したりもしませんでした。


「‥‥俺もそう思っていたが、今はそういう気分じゃないみたいだ。俺はあいつと距離を取る」


意外すぎる返事です。あたしの推測ですけど、姒臾は子履に嫌われていることにうすうす気づいていたのでしょうか。おそらくこれ以外にも姒泌からいろいろ言われて、自分は女に嫌われるようなことをしていたと自覚し始めたのでしょうか。子履に関してはもう遅すぎるくらいですけど、新しい女を作るなら絶好の機会かもしれません。ちなみにあたしも姒臾は生理的に無理です。

姒臾は、部屋に明かりがついていなくて表情を伺えませんでしたが、月や星空に照らされるシルエットを見るとまるで元気がなく、うなたれていました。あたしはしばらく黙ってそれを見ていましたが、やがて姒臾の「いつまでそこに立っている」という言葉で我に返ります。


「‥‥いいえ、ここはあたしの部屋ですが」

「あ‥ああ、そうだったな」


姒臾は思い出したように、ゆっくり壁から離れます。食堂はもう営業時間を過ぎているはずですが、姒臾が自分の部屋に食べ物でも置いていれば別です。


◆ ◆ ◆


あたし、子履、任仲虺、3人揃って子履の部屋に行きました。果たしてそこには、ぜいの国出身の姒泌がいました。しかしそれがまるで異様でした。姒泌はまるで猫のように、床に置いた皿に顔を突っ込んで、箸も手も使わず直接食べています。


「何‥しているのですか?」


さすがに私も見たことはありませんよと言わんばかりに、無我夢中で食べている姒泌に子履が声をかけます。姒泌はしばらく固まった後、全身を震わせてあたしたちを見上げます。


「見ましたか‥‥?」

「見ました」


とっさに姒泌は土下座して、楽器よりも激しく頭を床に叩き込みます。


「どうか忘れてください。これは私の子供の時の習性でして、ああ、また母上に叱られる!ふぁあ‥‥ど、どうして数日も部屋をあけてたんですかぁ‥‥?」


ああそうか、数日も子履が帰ってこなかったから1人で好き放題していたのですね。なぜそんな猫みたいなことを好んでしていたのかはまったくもって謎ですが。

しばらくして姒泌は皿を片付け、何事もなかったかのように‥‥というには程遠く怯えたようにキョロキョロしながら、ベッドに静かに座ります。


「‥‥そ、それで、どのような用件ですか?」

「お聞きしたいのです。姒臾と付き合っていた時、姒臾はどのような様子でしたか?」

「そ、そんなこと聞くんですぅ‥‥?」


姒泌はまた涙目になっていました。ああそうか、姒泌は振られた側、失恋した側ですよね。こんなことを平然と聞く子履にもデリカシーがないと思いますが‥‥多分、実際に姒臾の相手をさせられた子履にとってそれは些細な問題でしょう。

姒泌は少しの間涙ぐんてから答えました。


「わたしのことを何でも管理すると言われて、拒否したんです。それは覚えてますぅ‥‥」

「なぜ拒否に至ったのですか?」

「俺から離れるな、お前は俺が守ってやると言われて最初はたのもしかったのですが‥‥その‥‥部屋にもついてきますし、トイレにもついてきますし、更衣室にも‥‥」

「う、うわあ‥‥」

「そのうち、部屋から絶対に出るなと閉じ込められるようになり、思い切って拒絶してみました‥‥わたしの求めているものを丁寧に説明したらそのあと普通に戻ってくれたけど、しばらくしてから振られたんですぅ‥‥」


姒泌は目の周りをはらしていました。はなはだ信じられないことではありますが、姒泌はこれでも姒臾のことが好きだったようです。案の定、姒泌は言ってきました。


「好きだったのにぃ‥‥」


あたしは額に手をあてて、「はぁ」と大きくため息をつきます。子履の様子を見ようと思いましたがやめました。あたしの何倍も信じられなくて呆然としているのが簡単に想像できます。


「‥‥あの‥‥‥‥‥‥いえ」


姒臾のどこが好きだったのか聞こうと思いましたがやめました。やっぱり相手が姒臾とはいえ、姒泌にとっては立派な失恋です。そっとしておいたほうがいいでしょう。


さてちゃっかり自分の本来のベッドに腰掛けた子履が、ベッドの下から黒いスーツケースのようなものを取り出します。この中に歯ブラシが入っているのです。


「思えば、姒泌が私達の歯磨きに不快感を示さなかったのは、アレのせいだったかもしれませんね」

「ああ‥‥あるかもしれません」


猫のように皿に顔を突っ込んで食べていたあれですね。ああいうことをやっているから、子履とあたしの歯磨きに何も言えなかったのかもしれません。さっきの姒泌はまるで猫みたいで、内心かわいいと思ってしまったのは内緒です。

子履と隣同士で歯を磨き終えると、あたしはベッドから立ち上がります。


「今夜は一緒に寝ないのですか?」


と、残念そうに尋ねてきます。いやいや、それができたら毎晩一緒に寝てますよ。そういえば昨日まで当たり前のように、任仲虺の部屋で一緒に寝てましたね。狭かったけど。任仲虺は妘皀目うんきゅうもくのベッドで寝たので、あたしは子履と2人きりで寝るしかなかったんですよね。はぁ。


「あたしにもあたしの部屋がございますので‥」

「昨夜までのデート、楽しかったですよね」


子履がにっこり言うのと同時に、向かいのスペースでベッドにうつぶせになっていた姒泌が枕を抱いて泣き出しました。さすがの子履も「ああ‥‥」と眉にしわを作りながら笑っていました。


「‥そうですね‥今夜は特別に、そういうことにしましょう」


いやですから昨日までが特別だったんですってば。さらりと常識書き換えないでくださいよ。


「‥わかりました。それでは失礼します」


あたしは逃げるようにその部屋を離れて、妺喜ばっきの待つ自分の部屋へ駆け足で向かいました。

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