第305話 籌策と希望
頓から来た妻は、もちろんそのような葛伯に惚れるはずもなく、実質的に別居の生活が続いていました。葛伯は、やはり酒の席には女が必要なので妻が服従しないと分かると葛に仕える士から女を募集しました。しかし葛伯の素行についての評判はすでに士のみならず民にも及んでいたため誰も希望する人はおらず、ついに民から適当な女を無理やり引っ張って相手させるようになりました。
その女の親が抗議のために仕事をやめ、それをよしとしない葛伯が父親を殺したため女は自殺しました。このことに激昂した葛伯は、民から無理やり女を引っ張ってくる時に、その親も連れてきました。女には「親にもいい暮らしをさせてやる」と言い、女に美しい着物を与えて屋敷に住まわせる一方で親は殺し、女にはその親への面会を許しませんでした。そのような女たちが10人ほど、毎晩葛伯に
「女だけではありません。葛伯に仕える士の中にも、葛伯に恨みを持っている人は多いのです。兵士も義務的に葛伯に従っているだけで、忠誠のかけらもありません。しかし葛伯は信頼のおける人のみを護衛にしているので、その護衛たちの目を盗んで葛伯の首を献上させる必要があります」
「確かに、多数の兵士の血を流すよりも伯の首1つで済むほうがいいですね。葛の民を救うという大義名分にもなりますし」
ここですいっと
「それでは間者を送り、10人の庶民の女に働きかけて料理に毒を混ぜるのでしょうか?」
「惜しいです。葛伯はよくても、護衛が許さないでしょう。ただでさえどこの出身かも分からない女をわざわざ恨みを買ったうえでそばに置いているのですから、護衛が彼女たちに気を許することはないでしょう」
「それでは‥狙うのは妻でしょうか?」
「はい。そういうことです。妻はもともと葛伯のことを快く思っていませんでしたし、10人の女のことも知っていれば喜んで応じるでしょう」
◆ ◆ ◆
間者についての話がまとまって徐範と
「それにしても、葛伯が無理やり連れてきた最初の女が自殺したらしいんですけど、その女はけっこう義理堅い人なんですね」
「それもあるでしょうけど、多分、もう1つ理由がありますよ」
「シュレディンガーの猫とは?」
前世の記憶などない任仲虺が尋ねてくると、あたしは簡単に説明します。
「箱の中に猫を入れてふたをしました。その猫は生きていますか?死んでいますか?」
「その情報だけだと何も分かりません」
「そうでしょう。猫の生死を確認するには、どうすればいいですか?」
「箱を開けたり、揺らしたりしてみます」
「それをやってみれば分かります。やってみる前は、生きている可能性と死んでいる可能性の両方があるということです‥‥」
任仲虺が首を傾げていたので、あたしは少しの時間を説明に費やし‥‥「‥‥なるほど、観測しない限り断定することはできない、ということですね」と言ったところで、子履が話を戻します。
「最初の女が自殺した時、葛伯はその死体を女に見せました。だから女は自殺したんです。反対に、今いる10人の女は、親が殺されたという噂だけは聞いているはずですが、実際にその死体を見たわけではなく、あまつさえ手紙のやり取りもしています。もちろん手紙はすべて葛伯側の偽造だと思いますけど、それで女たちは親を諦められずにいるのです」
「‥‥サイコパスですね」
「サイコパスとは何ですか?」
「ああ‥‥残忍ってことです」
任仲虺はこういうときにも冷静に単語の意味を聞いてきます。頭がくらっとしそうになったあたしとは対称的です。任仲虺もこういう話には慣れているのでしょうか。
「‥‥でも、そうだとすると、葛伯が死んで真実を知った女たちのことが心配ですね。自殺したりしないんでしょうか」
とあたしがつぶやくと、任仲虺は即座に首を振ります。
「最初の女が自殺したのは希望を完全に失ったからです。今の女たちは、親が生きているという僅かな希望で生きています。親が死んだと分かっても、希望さえあれば大丈夫でしょう」
「といいますと?」
「履さんがその希望になるのです」
あたしは「えっ」と思わず声に出します。任仲虺の視界に割って入って、子履の前まで動きます。
「あの‥仲虺様、履様はあたしの女なので‥‥」
「そういう意味ではありませんよ。履さんはこの商の國をしっかり治めて民を餓えさせないようにしていますから、葛の民も履さんの統治には希望を持ちます。少なくとも、葛伯のようなことは二度と起きなくなるはずです。彼らを落胆させないよう、しっかりやりましょう。履さん」
子履は何も答えず、黙りこくってしまいます。「履様、大丈夫でしょうか‥?」とあたしが聞くと、子履は無言でこくこくとうなずきます。あ、これ、プレッシャーかかってるやつですね。しょうがないですね、あたしも何か手伝わないと。やれることをやらないと。
「‥‥っ」
あたしは突然、思い出したくないものを思い出します。あれはさすがに‥‥。確かにあたしはあれに自信がありますが、今は‥‥でも子履にも励ましてもらいましたし、何より‥‥もしも子履たちがどんなに頑張っても駄目だったときに、あたしの手で救える命がもしあるのでしたら。あたしは空っぽの手を握ります。
◆ ◆ ◆
商は2000ほどの兵を連れて、
兵たちの鎧は、青銅ではなく鉄を使っています。古代中国ではもっともろい青銅を使っていたはずなのですが、そこも前世とは違うところですね。子履も「前世の三国時代の兵士と戦っても勝てると思います」と言っていました。
馬に乗る将軍とともに歩兵が歩き、後方をあたしたちを乗せる馬車が進んでいます。あたし・
もし予定通りにうまくことが運ぶなら兵士同士の戦いがあるわけではないですが、もしものときには兵士も武器を持って戦うことになるでしょうし、戦争といえば戦争です。
「そういえば履様、あたしに初めて前世の記憶があることをばらした時、夏帝がお隠れになるまで戦争せずやり過ごすと言っていましたね」
「はい。ですが、私の目標は果たせなくなってしまいました」
そうやって子履が肩を落とします。しばらくの間ができたところで、徐範がこっそりと小さい声であたしに尋ねます。
「もし、『前世の記憶』とは一体?」
「‥‥‥‥あっ、こっちの話です。あたしたちだけの個人的な秘密っていうか‥‥」
しまった、そういえば徐範はあたしと子履が善政の記憶持ちだということを知っていないのでした。徐範はこの馬車の中を見回したあと、「‥‥私は少し外へ涼みに行きます、作戦の話はまた後で」と言って馬車から出ていってしまいます。ああ、そういえば徐範以外全員女の子でしたね、この馬車にいる人。簡尤でもいれば少しは事情が変わったんでしょうか。
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