第304話 葛を滅ぼした先のこと

子履しりの書斎に、あたしと任仲虺じんちゅうき徐範じょはん簡尤かんゆうは一緒に入りました。子履は机の上に視線を落としています。


「お疲れ様です」


あたしが声をかけても、子履は悲しそうにうつむいています。


「‥‥子供のことを気になさってますか?」

「はい。でもこうなってしまった以上、一歩を踏み出さなければいけません。誰かの犠牲がなくても誰でも笑って暮らしていける國を作ります。今回犠牲になった子供は心に刻みます」


子履はそう自分に言い聞かせるように、息継ぎもなく喋っていました。あたしはそんな背中を優しく撫でてあげます。


「一人で背負う必要はないですよ、あたしたちがついてますから」

。好きです」


そうやって子履があたしの腕に頭をあずけたところで、任仲虺が「ここにはわたくしもいるのですが」と咳払いします。ごめんなさい、ここには任仲虺たちもいたのでした。


さて、仕切り直して、机の椅子に座る子履の前にあたしたち4人が立っています。


りん将軍は、今回の侵攻は戦力的には厳しいと言っていましたね」


こう子履が切り出したとおり、しょうの兵士は3000人、かつは4000人。侵攻中に商に留守の兵を置く必要があるので、商の兵はもう少し少なくなります。

もちろん商にも多くの人が集まっているのですが、最近増えた人口のほとんどは外国人で商への帰属意識はそれほど期待できないし、仮に訓練してもものになるまで時間がかかります。


「陛下、ですが、林将軍はまた、敵兵の士気や練度がたいへん低いので、その差で巻き返せる可能性は十分あるとも言っていましたね」


と、あたしが応じました。葛泊が毎日のように酒を飲み、女と遊び、代わりに國民はあらゆる財産を巻き上げられ苦しんでいるのです。葛の兵には不十分ながら食料が配給されているものの、兵たちもそのような民の中から徴兵されたわけで、兵たちの家族が葛泊のせいで苦しんでいるのです。当然ながら士気も高くないだろうとのことでした。


「でも数だけはあるので、制圧は簡単ではないでしょう。そこで私も考えてみたのですが、あらかじめ間者を送って兵の反乱を煽るのはどうでしょうか」

「確かにそれもいい案ですが、私のほうから提案をする前に、ひとつ、葛を滅ぼした先のことで考えてほしいことがございます」


と、徐範が前に出ました。


「葛を滅ぼした先のことですか‥‥?」

「はい。この戦争には3つの役割があります。1つは、人が増えすぎた商の國にふさわしい広さの土地を手に入れるため。1つは、がいきなり侵攻してきたときに諸侯からの援軍を受け入れるまで耐える体力を手に入れるため。1つは、商も戦争する國であることを諸侯に示し支持を集めるためです。ところで、諸侯は何のために商を支持するか分かりますか?」

「ええと、夏がいま様々な國を滅ぼしているので、それに対抗するための体力が必要なのでしょうか」

「惜しいです。諸侯は、夏の滅亡を望んでいます」


その徐範の返事で、子履はあっさり口をつくんでしまいます。さらに徐範は追い打ちをかけます。


「夏帝は、自国の民をひどく苦しめてきました。それだけならまだ夏の国内問題です。しかし、瓊宮けいきゅうを建設するために諸侯から民を集め生きて返さなかったこと、いくつかの無害な國を攻め滅ぼしたことは、諸侯にとって大きな悩みの種です。もちろん、この商もその危機に瀕しています。そのため、夏の滅亡を望む國が増えているのです」

「たしかにその状況になっていることは想像に難くないのですが、なぜそれに商が参加する必要があるのですか?すでに仲間がいるなら商抜きでやればいいのではないですか?商は別に軍事力が高いわけでもないですし。それからもう1つ、夏が滅んだあとは誰がこの九州をおさめるのですか?」

「その2つの質問にまとめて返事します。陛下は諸侯にはないものを3つ持っています」

「3つ‥‥ですか?」

斟鄩しんしんで竜を倒したことです。あれによって陛下は強い力を持っていることを諸侯に知らしめました。これが1つです。陛下は夏台かだいに幽閉される辱めを受けました。諸侯はどこも人夫を奪われたという恨みを持っていますが、逆に言うとそれはどこの諸侯も同じで、特に取り立てて1つの國が目立つようなことはないのです。それに対して陛下はご自身が罪人として幽閉されることで、他のどの諸侯よりも夏を滅ぼしたいという強い動機があることを簡単に示すことができます。これが1つです。竜の件があって、夏から大量に亡命してきた家臣の半数、そしてせつから生還できた家臣の大半がこの商に集まりました。それだけでなく、彼らは実際にこの商のために動き、様ご考案の経済政策もあいまって商の内政に大きく寄与しており、戦争が終わった後の内政の手腕でも期待を集めています。これが1つです。諸侯にとって陛下は、夏にあらがう勢力の象徴であり、ゆえに参戦を望んでいるのです」

「もう1つの質問、夏が滅んだあと誰が統治するかに答えていない気がしますが‥‥」

「はい。陛下がお治めになるのです」


その一言で子履は口をあんくり開け、言葉を止めてしまいます。

そこにあたしも割って入ります。あたしは子履のことをずっと見てきましたが、とても子履がそのようなことを望むとは思えません。


「徐範様、履様以外にも九州を治めたいと思っている人はいるはずです。その人に任せてはどうでしょうか?」

「帝ぎょうが崩じたあと虞舜ぐしゅん(※帝舜のこと。当時は帝ではなかったのでこのような書き方になっている)は丹朱たんしゅいただき(※相手を帝に立てて従うこと)みずからは(※黄河)の南に移ったのに、諸侯は丹朱ではなく舜のところに集まり、訴訟も舜のところに意見を求め、謳歌するものも丹朱ではなく舜をうたいました。舜が崩じたあと、商均しょうきんを戴き陽城ようじょうに逃れましたが、諸侯も同様に従っています。今ここで夏が滅んだあと、諸侯が新たな帝を名乗るのは勝手ですが、それに人が集まり栄えるかは別の問題です。確かに野心を持つ諸侯はいますが、それらは陛下よりも格下であり、そのような人に天下を任せると世はますます乱れます。いま諸侯の多数が支持する以上、陛下が上に立つほうがさらに安泰であると誰もが考えるのは自然なことです。そして、それ自体が夏討伐の大義名分となりえます」

「薛の人はわたくしのいるここしか実質的に選択肢がなかったのでともかくとして、夏の人がここへ集まった時点で、いずれそうなることを織り込んで考えるべきでしょう。夏は天下に影響を及ぼす國であり、そこに仕える人はみな大業だいぎょう(※九州全体に影響を及ぼすような大きい事業)を望み、それに見合う人間になれるよう勉学に励んできました。そのような人たちがわざわざ小国でさらばえることを望むはずがありません。陛下が戦争をしないと訴えた時に夏人かじんが陛下を見限って離れたのは、この國が夏に置き換わるものでないと考えたからです。この商は、外側からも内側からも期待されており、陛下はそれを裏切ってはいけません」


徐範だけでなく任仲虺も加勢してきました。うーん。話をまとめるとつまり、夏が滅んだ後にこの商が九州を治めたほうがうまくいくと諸侯は考えている、だから諸侯は商の参戦を望んでいるということでしょうか。

と、子履の様子を見て徐範が声を急にやわらけます。


「まあ、陛下の一連の戦争拒否がこの葛のための策略でないならば、今ここで帝になる決断を下すのは陛下には荷が重そうですね。戦争が終わった先のことはあとでゆっくり考えましょう。まず、夏に対抗できるだけの体力を手に入れるために今すぐ葛が必要です。しかし、もし葛を滅ぼした後に諸侯の期待に応える決断をなさる可能性が少しでもあるのならば、それに矛盾した行動は今の段階から避けるのが賢明でしょう」

「それは、つまり‥‥?」


子履が机に手をついて、身を乗り出します。こくりとつばを飲み込んで、徐範をじっと見ています。徐範は言いました。


「兵の血を流すことなく、計略だけで葛を手に入れるのです。陛下には禹のような徳があったから葛のような小国は戦わずに従ったと諸侯に知らしめるには、これで十分でしょう」

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