第304話 葛を滅ぼした先のこと
「お疲れ様です」
あたしが声をかけても、子履は悲しそうにうつむいています。
「‥‥子供のことを気になさってますか?」
「はい。でもこうなってしまった以上、一歩を踏み出さなければいけません。誰かの犠牲がなくても誰でも笑って暮らしていける國を作ります。今回犠牲になった子供は心に刻みます」
子履はそう自分に言い聞かせるように、息継ぎもなく喋っていました。あたしはそんな背中を優しく撫でてあげます。
「一人で背負う必要はないですよ、あたしたちがついてますから」
「
そうやって子履があたしの腕に頭をあずけたところで、任仲虺が「ここにはわたくしもいるのですが」と咳払いします。ごめんなさい、ここには任仲虺たちもいたのでした。
さて、仕切り直して、机の椅子に座る子履の前にあたしたち4人が立っています。
「
こう子履が切り出したとおり、
もちろん商にも多くの人が集まっているのですが、最近増えた人口のほとんどは外国人で商への帰属意識はそれほど期待できないし、仮に訓練してもものになるまで時間がかかります。
「陛下、ですが、林将軍はまた、敵兵の士気や練度がたいへん低いので、その差で巻き返せる可能性は十分あるとも言っていましたね」
と、あたしが応じました。葛泊が毎日のように酒を飲み、女と遊び、代わりに國民はあらゆる財産を巻き上げられ苦しんでいるのです。葛の兵には不十分ながら食料が配給されているものの、兵たちもそのような民の中から徴兵されたわけで、兵たちの家族が葛泊のせいで苦しんでいるのです。当然ながら士気も高くないだろうとのことでした。
「でも数だけはあるので、制圧は簡単ではないでしょう。そこで私も考えてみたのですが、あらかじめ間者を送って兵の反乱を煽るのはどうでしょうか」
「確かにそれもいい案ですが、私のほうから提案をする前に、ひとつ、葛を滅ぼした先のことで考えてほしいことがございます」
と、徐範が前に出ました。
「葛を滅ぼした先のことですか‥‥?」
「はい。この戦争には3つの役割があります。1つは、人が増えすぎた商の國にふさわしい広さの土地を手に入れるため。1つは、
「ええと、夏がいま様々な國を滅ぼしているので、それに対抗するための体力が必要なのでしょうか」
「惜しいです。諸侯は、夏の滅亡を望んでいます」
その徐範の返事で、子履はあっさり口をつくんでしまいます。さらに徐範は追い打ちをかけます。
「夏帝は、自国の民をひどく苦しめてきました。それだけならまだ夏の国内問題です。しかし、
「たしかにその状況になっていることは想像に難くないのですが、なぜそれに商が参加する必要があるのですか?すでに仲間がいるなら商抜きでやればいいのではないですか?商は別に軍事力が高いわけでもないですし。それからもう1つ、夏が滅んだあとは誰がこの九州をおさめるのですか?」
「その2つの質問にまとめて返事します。陛下は諸侯にはないものを3つ持っています」
「3つ‥‥ですか?」
「
「もう1つの質問、夏が滅んだあと誰が統治するかに答えていない気がしますが‥‥」
「はい。陛下がお治めになるのです」
その一言で子履は口をあんくり開け、言葉を止めてしまいます。
そこにあたしも割って入ります。あたしは子履のことをずっと見てきましたが、とても子履がそのようなことを望むとは思えません。
「徐範様、履様以外にも九州を治めたいと思っている人はいるはずです。その人に任せてはどうでしょうか?」
「帝
「薛の人はわたくしのいるここしか実質的に選択肢がなかったのでともかくとして、夏の人がここへ集まった時点で、いずれそうなることを織り込んで考えるべきでしょう。夏は天下に影響を及ぼす國であり、そこに仕える人はみな
徐範だけでなく任仲虺も加勢してきました。うーん。話をまとめるとつまり、夏が滅んだ後にこの商が九州を治めたほうがうまくいくと諸侯は考えている、だから諸侯は商の参戦を望んでいるということでしょうか。
と、子履の様子を見て徐範が声を急にやわらけます。
「まあ、陛下の一連の戦争拒否がこの葛のための策略でないならば、今ここで帝になる決断を下すのは陛下には荷が重そうですね。戦争が終わった先のことはあとでゆっくり考えましょう。まず、夏に対抗できるだけの体力を手に入れるために今すぐ葛が必要です。しかし、もし葛を滅ぼした後に諸侯の期待に応える決断をなさる可能性が少しでもあるのならば、それに矛盾した行動は今の段階から避けるのが賢明でしょう」
「それは、つまり‥‥?」
子履が机に手をついて、身を乗り出します。こくりとつばを飲み込んで、徐範をじっと見ています。徐範は言いました。
「兵の血を流すことなく、計略だけで葛を手に入れるのです。陛下には禹のような徳があったから葛のような小国は戦わずに従ったと諸侯に知らしめるには、これで十分でしょう」
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