第303話 大義名分(4)
「いいですか、
「主君には時として演技力も必要です」
あたしと
あたしは小声で「‥‥今更ですが、早く起きて考えた案がありまして‥」と声をかけますが、子履は「いいです」と首を振ります。
「いいのですか?」
「‥前世の中国でも大量の本が散逸しています。戦争によると思われるもののほか、焚書坑儒のように時の権力者にとって都合が悪いので消されたとも。もしかしたら前世でも、権力者のブラックな面の中でも伝わっていないものは案外多いかもしれませんね。それに‥‥戦争をしないという綺麗事ばかり振りかざしていても、平和にはなりませんから」
「履様‥‥」
後で部屋で2人になりましょう、と言いかけましたが、やっぱり3人のほうがいいでしょうか。子履もあたしと2人きりでいるのはまだ苦手なようですし。恋人としてどうなんでしょうね‥‥。
◆ ◆ ◆
朝廷で椅子に座ったときの子履は、堂々と振る舞っていました。割り込みで内政に関して陳情があったのでそれを処理したあと、
葛の兵が前回の支援物資を横取りしたことに対して徐範を抗議にやったところ、葛のほうの手違いだったと返答があったようです。反対派の声はいったん無視して、葛にもう一度支援物資を送ることになりました。もちろん、子供を含めることまではわざわざ朝廷で指示は出しません。実際に子供を選んで集めるのは、支援物資を運ぶ民間人を選ぶあたしと
「気が重いです‥‥」
「伊様も確か、子供を使うことは反対でしたね」
盗み聞きがないように後宮のあたしの仕事部屋を使っての作業でした。
「子供の応募は7人ほどあるようですな」
「それでは、1人だけ選びましょう。なるべくなら身寄りのない子を」
「1人しか選ばないことは賛成ですが、身寄りのない子をわざわざ選ぶと怪しまれるかもしれませんな」
「そ、そういうものですか‥‥」
「お気持ちは分かりますけど、
あたしは黙って、簡尤の言う事を聞くしかありませんでした。うう、いくらなんでもこれは重すぎます。気紛らしがないと落ち着きません。
「‥‥簡尤様」
「どうしましたか?」
「簡尤様はどうして、この
簡尤は少し作業して、「そうですな‥」と声を出します。
「特に深い理由はありませんね。私は商の家臣の子として生まれました。物心ついたころにはもう商に仕えることが決まっていて、そのまま成り行きに任せましたな」
「商の家臣になるよりもほかに、やりたいことはなかったのですか?」
「考えたことはありませんでしたな。経済学など、基礎の学問を仕込まれました。ああ、夏の学園にも行きましたな。当時は
聞くところによると、商の家臣になる以外に選択肢はありませんでしたし、それを特におかしいとも思わなかったそうな。あたしの前世の価値観にてらしあわせると、おかしい、寂しい、かわいそう、という感想は浮かんできますが、不思議とそれを言う気にはなれませんでした。
「簡尤様は今の生活にご満足ですか?」
「はい、もちろん。満足していますよ」
そのまま、しーんとあたしは黙ります。私語が停滞します。その次に簡尤が質問しました。
「私からも逆にお尋ねしますが、家臣以外に選択肢がないことを伊様はどう思われますか?」
「え‥‥」
「伊様は経済学において他の人とは異なる考え方をされていると、これまで何回もお話いたしました。伊様の考えに照らし合わせて、この状態はどう思われますか?」
図星でした。あたしが今考えていたことを、簡尤は読めるのでしょうか。今の文脈でこういう質問ができるのでしょうか。‥‥でも聞かれたからには、答えるしかありません。
「‥‥あまりよいとは思いません」
「それはなぜですか?」
「職業は自由に選択できるようにすべきですし、誰にでも選択肢があるんだと思えるように、世の中にあるいろいろな職業を知っておくのも大切だと思います。もちろんこの世界の教育がそのようになってないのであれば改めたほうがいいですし、この國は多くの職業によってなり立っていることを学ぶいい機会にもなると思います」
「なるほど。それでは誰でも自由に職業を選択できるようにするメリットはありますか?」
「個々がやりたいことを自由にできるようになりますし、やりたい仕事ができるということはそれだけやる気も上がるということですから、仕事の生産性も上がります」
簡尤はしばらく作業を続けていましたが、あたしの言葉にうなずくまでに少し時間がかかったように見えます。
「この九州にいる人は、家系を重視します。黄帝の血を継ぐものでないと伯にはできないと言う人もいましたし、実際それで伯になれなかった有能な人も多くいます。職業の自由化はメリットもあるでしょうが‥‥」
この世界にその制度を導入するという話をあたしはしていなかったつもりでしたが、いつの間にかそういう話の流れになっていますね。まあ、こうなった以上あたしも話を合わせるしかないかなあ。
「‥‥いるんですよ」
「え?」
「別の仕事をしたかったのに、親の命令で士になるしかなかった人を、私は何人も知っています。一度庶民に落ちると士大夫に戻るのは難しいですし、これもひとつの親心なのでしょうね」
覗いてみると、簡尤は渋い顔をしていました。あたしはあまり詮索をしたくなかったです。この手の話は前世の物語でも何度か見てきましたし、ただでさえ今はもっと他に重い話題があるのに、あまり自分への負担を増やしたくないという気持ちが先に働きました。あたしはその場では適当に相打ちを打っておきました。
◆ ◆ ◆
あたしと簡尤は名簿を作るだけで、実際に人を集めるのはその名簿を元に動く兵士です。周辺の諸侯のためにも、國をあげての関与である痕跡をできるだけ作りたくないので、士大夫はあまり前に出ないようにしているのです。つまりあたしも子履も、その子供の顔を見ていません。
その翌週の朝廷で、徐範から、予想通りというか、予想が当たってほしくなかった、そういう報告を聞かされました。
「支援帯は前回の反省を活かして、支援物資を
「その殺害された者には、わが國の民も含まれるのですか?」
「はい。逃げ帰ってきた人はほとんどおらず、聞くところによると年端もいかない子供も殺害されたようです」
「子供が‥‥」
子履は震える手で椅子の肘置きを握ります。そして、強めの声で「なぜそんな任務に子供を同行させたのですか!」と聞きます。徐範は「親が支援帯に参加することになり、それについて行ったようです」と返答しました。
子履は椅子の上で、手で目をこすっていました。泣いているようです。きっとあれは演技ではなく本物です。あたしは事情を知っているので声をかけるのをためらいましたが‥‥いえ。いつものあたしなら声をかけていたはずです。
「履様‥」
「摯は黙って下さい」
あたしすら口を挟めず、他の家臣も声を出すこともできない異様な空気が、しばらく続きます。子履は「‥‥少し期待していましたが、無駄だったようですね。決めました」と、短く言います。そして、椅子から立ち上がります。
「
「はい」
兵士が反応して大広間を出ます。ドアの閉まる音が静かな部屋に響いたあと、子履はようやく顔を上げて、表情を家臣たちにあらわにします。
「葛の民が私たちの領土を侵害するほど困り果てていたので、私たちは酒に
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