第306話 葛の邑人の望み

「前世では、車やバスは私にとって移動手段でした。行く先で買い物をしたり、美樹みきとデートしたり、あるいは学校へ行っていじめられたり‥‥」


子履しりは、揺れ動く窓の外ばかりを眺めて、その隣に座るあたしに表情をよこしてくれません。でもその力ない声から、なんとなく予想はできます。


「今のこの馬車も、移動手段という点では同じです。でも‥‥この馬車の先にあるものを、私は倒さなければいけません。そう思うと憂鬱です」

「履様。お気持ちは分かります」

「前世の記憶を持っている私は、人を殺すのが怖いです。自分と相容れない人がいるということも受け入れられません。みんな、話せば分かってくれる人だと思ってしまいます。今も、もしかしたら葛伯と話し合えば分かってくれる‥‥そう思っている自分がいます」


戦争を決断できなかった背景にあるのはそれですね。確かに前世でも、子供向けの絵本は全部そうでした。悪役のいる絵本でも、最後には主人公はその悪役と仲良くなっていく、という終わり方ばかりでした。


「中国の歴史では戦争も多く出ますが、どの國も自分のことしか考えない結果戦争が起きるものだと思っていました。今もそれは変わっていませんが、自分の國を守るために戦争をする‥‥自分の國の滅亡と、他の國を苦しませることを天秤にかけて、私は自分の國を選んでしまいました」


それは商伯として極めてまっとうな選択です。自分と相手のどっちが死ぬかは、あまりに残酷な選択です。子履はにわかに振り向いて、大きく見開いた目から涙が溢れているのをあたしに見せました。


「‥他に方法はなかったのですか?例えば隣の国と協力して、あらかじめ兵士を自国に置いてもらうなど‥‥!」

「その國には見返りを要求されますし、その國自身も商に協力したとみなされてから攻撃されます」

「味方を一国だけではなくできる限り増やせば‥‥」

「夏に対抗できるほど大量の勢力を連合させるには時間がかかりますし、間に合わないです」


あたしの返事に子履がうつむきかけたところへ、向かいの席に座っている任仲虺じんちゅうきが一言、


「お言葉ですが、この馬車はすでに葛の國に入っています」

「ああ‥‥」


子履はその頭をあたしのおなかに思いっきりぶつけます。よしよし。あたしはその頭を優しく撫でます。


「履様、あたしから提案ですけど」

「ん?」

「さっき、目標を果たせなくなったと言ってましたね」

「はい」

「新しい目標を作るのはどうでしょうか?」

「新しい目標?」


子履はまんまる大きな目をして、あたしを見上げます。小さい口からは、白い歯が見えました。


「履様、政治は誰のためにするものですか?」

「民のためにします」

「新しい目標は、商の民を幸せにすること‥‥はどうですか?この戦争も、もとはといえば商を守るためです。夏の苛政から民を守ることができたらそれで十分幸せだと思いませんか?」


あたしがそう言い終わらない瞬間に、がたっと馬車が止まります。すぐにドアが開いて、ゆう礼している兵士が頭をのぞかせます。


「申し上げます、昼休憩の時間です」

「‥もうそんな時間でしたか」

「はい。それから、この近くのむらの民より陛下に贈り物でございます」

「葛の民から‥?」


あたし、及隶きゅうたい、任仲虺と一緒に、子履は馬車から下ります。確かに少し向こうの方で、地面に座って不器用に頭を下げている、ぼろぼろの服を着た庶民たちが何人もいます。この馬車はすでに葛の國に入っていますから、あの人たちは葛の國に所属する人ということになります。

その前で兵士たちが、いくつかのかごを子履に差し出します。横から見てみると、それには、あまり形はよくありませんが、白菜や小松菜、人参などの野菜が入っていました。


「邑の民は、商にぜひ葛伯を倒して欲しいと言っていました。こちらはほんのささやかな気持ちです」


子履はそれを見て、微動もしません。あたしが「履様‥‥?」と後ろから声をかけると、子履は「あっ」と声を出して、それから邑人のほうへ歩み寄ります。その中でも特に年齢の高いと思われる人が前に進み出ます(※この世界では、最も年齢の高い人が長老など重要なポストを務めるのが一般的)。


「あの野菜はどこにあったものですか?」

「あれはこの近くの畑で取れたもので、本来は國に納めるところをごまかし‥‥大目に見てもらっていたものです。商の國の民は餓えずにみな笑い合い、道に落ちるものを誰も拾わず、陛下とともに歩めるいまをうたいながら生きているとお聞きします。私とももぜひその中に加えていただきたいのです。必ず葛伯を倒して、われわれ邑人の生活を少しでも豊かにしてほしいのです。そのためならどのような代価も惜しみません」

「‥‥申し訳ありませんが、これは受け取れません。あなたたち葛の民は、明日食べるものにも困っていると聞きます。そのような人たちからこんな大切なものをいただけません。持って帰ってください」

「ですが‥‥我々としては、どうしてもこれを受け取ってもらわないと困るのです」


そう言って相手はいきなり地面に手をついて、勢いよく地面に頭をぶつけます。


「受け取れません。私は葛伯を倒すためにここへ来ているのです。あなたたち庶民の命を犠牲にすることはできません」

「いいえ、これは商伯にこそ受け取ってほしい品です。商による葛の制圧は、われわれにはそれだけの価値があるものでございます」

「でも‥‥」


申し訳無さそうにうなだれて何歩か下がる子履のところに任仲虺が近寄って、小声で話しかけます。


「陛下、この人たちは葛の民ですが、あなたはあくまで商の伯であり夏の部下でもあります。陛下が葛伯を倒されたあと新しい葛伯はどこから派遣されるのか、あなたに近い人が統治する場合に商の民と差別されないかの2つを気にしているのです」


え、直接言ったわけでもないのにそんなことまで分かるんですか。この世界の人達は以心伝心というか、なにか言語以外で伝える特殊な技術でも確立しているんでしょうか。

でも、そうですね、この侵攻は商が夏から攻め込まれても抵抗できるような国力をつけるのが目的ですので、商は葛を従属させることになるでしょう。なので新しい葛伯は商の人間から選ばれると思います。でも、もう1つの懸念についてはどう答えればいいのでしょうか。商に備蓄している食料は自国内への供給で精一杯で、それももうすぐ切れるとあります。とても葛の民に食料を回すほどの余裕はありません。せめて租税を減らすとかでしょうか。‥‥そういえば任仲虺が、こうの魔法を使って食料を生み出す計画を、この前子履に提案してましたよね。

と思っていたら子履は「‥‥はい」と、邑人のほうを振り向きました。地面に這いつくばる相手に、しゃかんで返事します。


「大丈夫です。あなたたちを苦しませるようなことは絶対にしません。約束します。これは持って帰って、新しい生活が始まることを祝うために召し上がってください」


村人たちは口を緩ませ、泣きながら何度も頭を下げていました。

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