第32話 伊摯の同室の少女
あたしが部屋を出てからしばらくすると、
任仲虺が近づいてきて、同室の芮の人に聞かれないように小さめの声で話しかけます。
「
「では、成功ということでございましょうか。
「いいえ、まだ第一関門を突破しただけです。あとは摯さん自身が気持ちに気づくまで待たなければいけません。ここが友人と恋人の岐路です。友人として遠からず近からずの関係を維持してください」
「これまで通りというわけですね」
「はい」
その作戦は、これまで子履が
「‥‥ところで、摯さんが履さんのことを恋人として好きなのは本当でしょうか?」
「といいますと?」
「女同士ですよね。好きという確信は、どこから来るのでしょうか?」
「それは話せません。遠い遠い昔の話ですから」
向こうを見る子履を見て、任仲虺は首を傾けますが‥‥子履が悪い人でないことは任仲虺も十分わかっていますので、うなずいて話を戻します。
「‥ですがわたくしも、ここまであっさりいくとは思いませんでした。摯さんにその気がなければ、第一関門の突破にはもう少し困難が伴っていたはずです。それがなかったのは、摯さんがもともと自分の気持ちに気づいていたのか、それとも‥‥」
「
子履は少し笑みを見せて、テーブルに置かれたクッキーをつまみます。
◆ ◆ ◆
さてさて、そんなことも知らないあたしは廊下を歩いて自分の部屋に向かっていました。
「‥うん?」
あたしは思わず立ち止まりました。あたしの部屋に、1人の荷物を持った女の子が入っていくのです。あたしと相部屋の人でしょうか。
「わあ‥」
暗い紫色に輝くその長髪はさらさらで、少しの風でもふわっと広がって、空中に美しく舞っていました。ちらりと見えた横顔はきりっと引き締まっていて、未来を見据えているかのようにりりしく、整っていました。漢服もかなり立派で、室内にもかかわらず宝石のように輝いていて、どこの国の人よりも高貴であることはひと目で分かります。
‥‥えっ?あの人があたしの同室なの?あたし庶民なんだけど、あんなすごい人と同室なの?ええっ、あの人は罰ゲームでも受けているのでしょうか?
あたしはおそるおそる部屋に入ります。
「しっ、失礼‥いたします‥」
それから前に転倒しそうなほど深く頭を下げるつもりでしたが、その女の子は部屋の左側にある机の前に立ったまま、振り向いてきません。うわ、あたしのような小物は眼中にないというのでしょうか。そういうのは普通はむかつくものですが、この時ばかりは、相手の上品な立ちふるまいに圧殺されて、どこか納得してしまう勢いでした。
「あのセンパイ、怖そうっすね」
「しっ、
その話し声に反応して、女の子が振り向いてきます。大きな窓から差し込むまぶしい日光の逆光となって、神々しく輝いているように見えました。しかしその目つきは鋭く、唇はへの字に噛んでいて、あたしを警戒しているようでした。
ですが、あたしにはそれすら、勇敢な少女の証であるとさえ思えていました。
「きれい‥‥」
思わず心の声が出てしまいました。ですが相手を褒める言葉なので特に訂正しなくても大丈夫でしょう。
しかし相手は不機嫌そうに、そっぽを向きます。
「‥‥‥‥今『きれい』と言ったこと、おぬしは後悔することになるのじゃ。二度とわらわに関わるでない」
それだけ言って、荷物を机の上に置きました。
‥ん?えっ、あたし、この子を怒らせた?怒らせたとしか思えません。まして、あたしは庶民です。あの子はあたしも士大夫だと勘違いして口頭での抗議にととめているようですが、庶民だとばれたら暴力もあるかもしれません。とりあえず土下座して、地面に頭を鐘のように何度もぶつけます。
「ご気分を害してしまい、申し訳ございません。どうか命だけは‥!!」
「‥‥わらわは別に怒ってないのじゃ。おぬしもどうせわらわのことが嫌いになるのじゃ。わらわに関わらないでくれ」
あたしは頭を地面に叩きつけるのをやめて、頭を上げて目をぱちぱちさせながらその少女の背中を見ていました。
「あの‥それはどういう意味ですか?」
「今にわかる」
その少女の顔は見えませんでしたが、窓から差し込む日光の作るシルエットで、肩が震えているように見えました。
あ、これ、つらい過去のある人の震え方ですね。あたしも‥なぜかはわからないけど、なんとなく理解できます。あたしは立ち上がると、大きめの声で呼びかけます。
「嫌いになるかどうかは、やってみないと分かりませんよ。あたしと友達に‥あっ、言い過ぎました。せめて話し相手にしてくれませんか?」
「‥‥」
あたしの呼びかけに、女の子はほとんど体を動かしません。
「センパイ行くっすよ、あの人、感じ悪いっす」
「隶、失礼だから黙ってて。ベッドであやとりでもしてなさい」
「あやとりって何っすか?」
「あっ、あー‥‥ひもを使って遊んでて」
「ちぇー」
及隶が不満そうに頬を膨らませてベッドに戻ったのを見ると、あたしは改めてその少女に尋ねてみます。
「まず先にお互いのことを知りましょう、ねえ?」
「気安く話しかけるな。後でつらくなるのじゃ」
この少女、口ぶりから察するに、おそらく人に嫌われるような秘密を持っているのではないでしょうか。身体障害があるとか、
「‥‥あなたとあたしは同室ですから、どっちみち最低のコミュニケーションがないと立ち行かないです。せめてお名前だけでも教えてもらえませんか?少しだけでもいいから、あなたと仲良くなりたいのです」
「‥‥‥‥お主は面倒だな。大抵の人は、ああ言っておけばわらわを面倒な人だと思って最初から遠ざけてくれるのじゃ。お主にプライドはないのか?」
「そのようなものはございません、庶民ですから」
少女は振り向いて、あたしの頭や脚をましましと見つめます。あたしはかろうじて貴族に見えるよう取り繕った漢服を着てオレンジ色の下着を覗かせていますが、これでも庶民なのです。今ここでばらしてしまいましたが、いずればれることです。相手が庶民をいじめるタイプであったとすれば、いじめられるのが少々早くなるだけです。こういうのは慣れています。‥‥ん?あたし、過去にいじめられたことありましたっけ?
しばらくして、少女はふふっと笑いました。
「おぬし、いじめられたことはないのか?」
「‥ございません」
「ここは士大夫と公族だけが通う学校なのじゃ。おぬしにその覚悟はあるか?」
「ございます」
「助けてくれる人は?」
「公族の友人がおります」
少女はため息をつきます。一瞬あたしが何か変なことを言ったかとびくつきましたが、しかしその顔つきは、最初の頃から見るとリラックスしているように見えました。
「おぬし、面白いな。名前は?」
ようやくここまで話が進みました。相手が譲歩してくれたのでしょうか、あたしの口元は一気に緩みました。
「はい。姓は伊、名は摯といいます。
とりあえず名前を聞いてくれただけでもよかった、とあたしは安堵しますが、それもつかの間でした。
あたしの名前を聞いて、少女も名乗ります。
「わらわは姓を
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