第169話 喜鵵の待遇(4)

岐踵戎きしょうじゅうは、自分の屋敷の書斎で紅茶を飲みながら本を読んでいました。ドアのノックがして、部屋に入れてみれば息子の岐倜きてきでした。


てきか、どうした。また陛下の粗でも見つけてきたか」


岐踵戎は、じゅう(※異民族の1つ)の人であった時に夏后履癸かこうりきの父にあたる夏后発かこうはつから女を1人もらったことがあります(※異民族を懐柔するために女を集めて献上する文化がある)。その女との間に生まれた岐倜は若いうちから利発で、岐踵戎は当初はの人だからと忌み嫌っていたものの、夏に帰順したあとは一気に態度を変えて丁寧に扱うようになっていました。


「いえ。ただ、気になることがありまして」

「ほう、どんなことだ」

「後宮に囚われているという女性のことです」


その返事で、岐踵戎は眉毛を高く吊り上げました。視線を本の中に戻します。


「それで?」

「あの女性は陛下が欲していると伺いました。なぜそのような女性をわざわざ牢につなぐのでしょうか?荒い扱いをすることで、女性が陛下を嫌いになることはないでしょうか?」

「倜。陛下を好きになるような女が出てくるはずはないだろう」


予想外に投げやりな返事に、岐倜はぴくっと肩を震わせます。岐踵戎が何を言っているのか、岐倜にはすぐ理解できませんでした。


「どうしても男と女をくっつけたいのなら、男の力を女にわからせることだ」

「力‥‥ですか?」

「そうだ。女は所詮、か弱い存在だ。力がなければ何もできない。陛下に逆らうと何が起きるかを理解させたほうが早いだろう。それをわかった女は、間違いなく陛下に媚びを売る」

「そのような男女関係は果たしていいのでしょうか?」

「倜は何も分かっていない。現に隣国同士が女を交換し、まだ会ってもいない男と結婚させることもよくある話だ。女は道具なのだよ。それで俺が陛下の信任を得られるなら安いものだ」


そう言いながら、岐踵戎は本のページを捲ります。岐倜はふうっとため息をつくと、丁寧にお辞儀をして部屋を出ていきました。


◆ ◆ ◆


同じ頃、羊玄も自分の屋敷にいました。羊玄は、自分が呼びつけた使用人に命令していました。


喜珠きしゅ蒙山もうざんはくが後宮にいると聞いた。だが、彼らを殺すことを考える連中もいるだろう。わしも陛下に何度も奏上しているが、陛下の言葉だけでは心もとない。食事に毒が入っていないか、見てくれ」

「はい、分かりました」


命令された使用人は翌朝、他の使用人に紛れて後宮に入ると、地下牢の入り口近くの茂みで待ち伏せます。そうして、1人の兵士がお盆に乗った食事を持ってきたところで、その兵士に話しかけました。


「私は羊右相うしょうさまの者だ。その食事を毒見しに来た」

「それは‥上の者の許可が必要で‥」

「心配ない。後から羊右相さまが何とかしてくれる。今ここにあるものが欲しい」


兵士はさすがに困った顔をしていましたが、使用人は半ば強制的にそれを取ると、すべての皿からわずかにひとつまみずつ取って、味見をします。それを終わらせてから「悪いことをした」と、そのお盆を返してから、壁をつたって敷地から出ていってしまいました。


屋敷に戻った使用人は、羊玄に報告します。


「喜珠・蒙山伯の食事を毒見しましたが、問題はないようでした」

「そうか、ご苦労。仕事に戻ってくれ」


羊玄はその報告を聞いて、「きさきの親を殺したとなれば、この国は間違いなく見限られるだろう」と言いながらすっかり安堵していました。

しかし使用人も羊玄も、毒以前の問題をひとつ見落としてしまっていることに気付くのは、全てが終わってしまった後でした。


◆ ◆ ◆


その兵士は、いつも通り食事を運んで、妺喜ばっきのいる柵の中に入れました。しかし妺喜は柵をつかんで、泣き叫びます。


「父上の食事はどうしたのじゃ?今この食事をあちらに持っていってくれ!」


しかしその兵士は無言で、食事を置き終わるとすぐ立ち去っていきました。「待つのじゃ、待つのじゃ!!」という妺喜の叫び声が聞こえなかったかのように、足音は流暢でした。


「もういい、女の品位を落とすな」


向かいの柵の中で柱にもたれ座って、喜鵵きつが言いました。この牢に入れられてからはや十数日、一度も食事を与えられていません。妺喜が食事を投げようとしましたが、喜鵵はすべて拒否しました。あれだけ元気だった喜㵗きびょう喜比きひはすでに、牢の隅っこで力なく横になっています。暗闇に包まれたこの2人の生死は分かりませんし、喜鵵が確認する体力もありません。


「父上はそれでいいのか?父上が死んだら、蒙山の国はどうなるのじゃ!?それから‥‥」

しゅはどうしたい?」

「えっ?」

「珠は、わしが死んだ後、どうしたい?」


妺喜はしばらく言葉に詰まった後、柵をつかんでぎしぎしと音を立てます。


「父上、気弱になるではないのじゃ!」


それを聞くと、喜鵵はまたかすかに笑うのでした。しかし笑い声はありませんでした。息を小さく吐くだけの、力ない笑いでした。


と思っていると、またひたりひたりと足音が聞こえます。今回は複数です。そして、ランプも1つ運んできています。妺喜が「誰じゃ?」と聞くと、その人は珍しく返事をしました。


「俺は夏の家臣で、岐踵戎という者だ」


その岐踵戎は、背後にいる喜鵵には見向きもせず、しゃがんで柵をつかむ妺喜と目線を合わせます。


「毎日のようにこの暗闇にいて、どうだ?心細いか?」


あまりにわざとらしい質問だったので、妺喜は返事もせず、音が鳴るように歯ぎしりします。


「陛下がお前に会いたいと言っている。悪い話ではないだろう」


妺喜は力強く首をぶんぶんと振ります。


「いいじゃないか、行って来い」


喜鵵が細い声でそう言うと、妺喜は「父上、気弱になるでないのじゃ!!」と叫びます。喜鵵は返事もせず、笑いもせず、ただ上を仰いでいました。

その様子を一通り認めると岐踵戎は笑いながら、後ろにいた使用人から受け取った木箱の蓋を開け、中にあるものをつかんで地面に落とし転がします。ころころと転がるそれは、ランプのほのかな光に照らされて、人の首であることがかろうじて分かる形状をしていました。


「それは‥?」


妺喜が尋ねると、岐踵戎は笑って妺喜をちらと見ながら返事します。


「蒙山の国の宮殿に人が残っていたのでな、そいつの首だ」


妺喜は柵の間に顔を思いっきり押し付けて、その首を見ます。暗いランプのもとで、それは薄い灰色の髪の毛が肩にかかるほどのびているのが見えました。冠はありませんが、この髪の形に見覚えはあります。


孫望そんぼう‥‥?」


妺喜の口にしたその名前は、蒙山の国の忠臣でした。いついかなるときも蒙山の国の民を思い、その志は周辺の家臣、そして父をも超えるもので、父はこの家臣を一番大切に扱っていました。蒙山の国の人は全員逃げるよう父が命令したはずですが、この人だけは蒙山の国に残っていても仕方ない、そう思えるような人物でした。


同時に、ばさっと何かが落ちる音がしました。妺喜は思わず、向かいの柵を見ます。柱にもたれていたはずの喜鵵の姿がありません。下を見ると、薄暗い光のもと、真っ黒で細長い何かが転がっていました。


「父上‥?」


しかしその妺喜に返事するものはありませんでした。


「父上、父上ーーっ!!!!」


柵をゆすりますが、音が立つだけで何も起きません。


「父上ーーーーーっ!!!!」


その柵の中に靴を入れ、岐踵戎は妺喜の膝を蹴ります。妺喜は上を見上げます。


「陛下がお前に会いたいと言っている。どうするか?」


ここから逃げられないことは明白です。そして、前の男からも逃げられないことは明らかです。しかし妺喜には、それよりも全く別の感情がわきあがっていました。


10日以上も、少しずつ弱っていく父や兄を見せつけられて沸き起こる感情。

妺喜にそれを実現するだけの力が宿っていることも、不幸なことでした。


妺喜は手で地面を激しく叩きます。


「あああああああっ!!!!!!」


わけもわからず、地面に向かって叫びます。涙が次々と地面に落ちます。


許さない。


なぜ衰弱する親を見なければいけなかったのか。

なぜこんな理不尽な扱いを受けなければいけなかったのか。


自分をこのようにした人にも、きっと同じ思いをさせてやる。

そいつは眼の前にいる岐踵戎、そして夏后履癸だ。


いや、それだけでは足りない。


蒙山の国は意味もなく潰された。

ならば、破滅を。夏に破滅を。夏にも同じ目を。


自分には、それだけの力がある。


あんの魔法を使って、どんな手段を使ってでも。


◆ ◆ ◆


その数日後、美しく着飾った妺喜は、夏后履癸の腕に抱きつきながら赤いカーペットを歩いていました。両横には、半ば呆れた表情をした家臣たちが並んでいます。

その背後には、バイキング形式の大皿の乗ったテーブルがいくつもありました。


夏后履癸、そして妺喜も、顔には笑みをたたえていました。


それはまるで裏のないようで、誰もがうらやむような笑顔でした。誰がどう見ても、幸せの絶頂にいるかのような顔でした。妺喜は夏后履癸の太い腕をぎゅっと力強く抱いて、頬をこすりつけます。まるで天使のようなほほえみでした。

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