第168話 喜鵵の待遇(3)

みせのバイトも再開しました。歩瞐ほばくが結構あたしのことを心配していたようで、キッチンの中で何度も話しかけてきます。口を布で覆った、この世界の人から見ると奇妙で気味悪い顔面の意味もやっと理解してくれたようで、ナチュラルに布マスクをつけながら話してくれるようになったので聞き取りやすくなりました。


「私も店長も何度も心配しましたよ?一体どうしてここを空けていたんですか?」

「その儀は本当に申し訳ありません」


と、人参を切りながら謝っています。歩瞐も鍋に火をかけている途中に話しかけてきます。今日は久しぶりに客が増えてきたらしく、他のスタッフもいますがあたしたちも忙しいです。

そうやってしばらく仕事していたところで、店員が1人入ってきます。


伊摯いしさんにお客様です」

「ああ、またですか‥‥」


店員がこうわざわざ言ってくるときは、大体相手は身分の高い人です。あたしも忙しいんですけど、まあ仕方ないです。料理の続きをやってくれる他のスタッフを捕まえてからキッチンを出ます。案内された先には、公孫猇こうそんこうがいました。


「やあ、商伯しょうはくの子はまだここに残っているのか」

「はい」

「いつ帰るんだ?」

「5日くらい後です」


春休みのためです。この世界は真冬のことを春と呼んでいるようです。前世で2月の雪がたっぷり積もった季節を春と言ったら頭がおかしいと言われそうですが、この世界では春です。肆の中はあたたかいですが外はそうではないようで、客たちはみんな外套がいとうを椅子の背もたれにかけていました。公孫猇のように身分の高い貴族のために別室に外套をしまうスペースもあります。


「それで本日は何の用事で?」

「ああ、蒙山もうざん伯の処分内容が決まった。主人に伝えてくれ。ここにはいないようだな」

「はい」


あたしは公孫猇からその内容を聞きます。うんうんと何度かうなずきます。


◆ ◆ ◆


寮に戻って、子履しりにその内容を伝えます。子履はたまたま索冥さくめいと会話し終わっていたようで、任仲虺じんちゅうきと一緒にあたしの部屋にいました。あたしと同室の妺喜ばっきがいないので、索冥と話すためにあたしの部屋に来るようになっています。子履の部屋だと姒泌じひつがいますもんね。あたしが部屋に入ると、索冥はすぐに姿を消しました。


「‥‥ということは、妺喜の親は牢につながれているのですか?」

「はい。少なくとも死刑にはしないそうです」

「よかったです」


よくはないですけど、まあ、あれだけのことをして死刑以外の選択肢は普通ないです。


「しかし、きさきの親に対してと考えると、牢につないでいる状態もかなり重いですね。普通であれば謝罪させてから放免でしょう」


やっぱりあたしと同じことを子履は考えていたようです。この世界では、とにかく親や先祖様が大切です。先祖の名前を覚えるのは常識です。そして妃の親という理由でどんな罪を犯しても無罪放免になることも、前例は知りませんがあってもおかしくありません。夏后履癸かこうりきは妺喜に特別の感情を抱いていたようですから、本当はもう少し親を厚遇してもよさそうです。


「妃の親を大切にすることで王さまの徳も上がります。そのことは考えている様子でしたか?」

「はい、無罪放免を訴えた家臣が何人かいたらしいですが、王様と側近が押し切ったようです」

「その側近の名前は分かりますか?」

岐踵戎きしょうじゅうというらしいです」


その返事で、子履はぴたりと動きを止めました。そういえば岐踵戎、あたしも以前聞いたことがあるような気がします。あれは確か、羊辛ようしんと初めて会った日のことでした。子履は羊辛、そして岐踵戎を、悪臣の代名詞として挙げていました。羊辛は無実のようでしたから、岐踵戎もきっと無実だろうとあたしはかすかに期待していましたし、あの日の子履の反応を見ていても考え過ぎだとか過剰反応だと思っていましたが、公孫猇の話を聞く限り、岐踵戎に関しては少し疑ってもいいと思います。


「その岐踵戎と仲のいい人たちを片っ端から宴に誘いましょう。周囲から少しずつ切り崩すのです」

「頭の回転の速さはいいですが、今すぐやるのはやめてください」


あたしもこういうことをきちんと言えるようになりました。いつも平和に関しては強引な子履も、頬を膨らましているのが見て取れます。


「履様、確かに前世の記憶があるかもしれませんけど、あたしたちはまだ子供ですよ。もうちょっと周りから大人として認めてもらってから出直しましょう」

笄礼けいれい(※女性の成人の儀式)まであと4,5年あります。それだけの期間があればとっくに夏王さまは妺喜と結び、国を破滅に導いているはずです。今の夏はまだ国体を保っています。動くのが早いほど難易度が低いのは間違いありません」

「まあまあ、考えすぎですよ」


前世の記憶があるのも困ったものですね、とあたしはため息をつきました。


◆ ◆ ◆


妺喜は牢の柵をつかみながら、向かいにいる喜鵵きつたちと何度も話していました。ずっと暗闇の中で孤独だったので、とにかく話し相手、自分の親という味方がそばにいるのが、とても心強く感じられました。

そのとき、足音が聞こえます。牢番です。食事を運んできたのです。牢番は妺喜の柵の中に食事を入れ、そして去っていきました。妺喜は慌てて牢番を呼び止めます。


「これ、これ。父上と兄上の分の食事は?次からはわらわより先にそっちへ持っていってくれ」


しかし牢番は返事しませんでした。暗闇なので表情は見えませんでしたが、少しの間立ち止まって何かをかみしめたあとで去っていったようでした。

妺喜はわずかな心臓の高鳴りを覚えましたが、喜鵵から「先に食べてくれ」と言われたのでそれを口に入れました。


◆ ◆ ◆


明日にはもう商へ向かって出発します。あたし、子履は、夏后淳維かこうじゅんいのもとを訪ねていました。後宮から出てきた使者は、あたしたちを少し離れた建物にある客間へ通しました。少し経って、夏后淳維が来ました。


「久しぶりですね。ああ、そちらの蜜柑みかんも食べていってください」

「ありがとうございます」

「本日はどのような用事ですか?喜珠きしゅのことでしょうか?」


テーブルの向かいにいる夏后淳維が、やさしく、そしていきなり図星を突いた尋ね方をしてきました。子履は「はい」とうなずきます。


「蒙山伯がまだ牢に繋がれていると聞きます。夏王さまは妺喜も蒙山伯ももろとも処刑するおつもりなのでしょうか?」

「父上のお考えになっていることは私には分かりませんが、少なくとも朝廷では死刑にしないことになっています」

「それでは終身刑でしょうか?」

「それも分かりません」


夏后淳維も首を振ります。こればかりはさすがに王様に直接掛け合わないと難しそうです。ですが夏后淳維も苦い表情をしていたので、きっと父のことをよく思っていないのでしょう。


「夏王さまにプライベートの場でご相談はなさっていますか?」

「‥‥善処します」


夏后淳維はうなずきましたが、子履はまだ尋ねます。


「夏王さまは、気に入らない家臣をすぐ処刑されるようなお人でしょうか?」

「いいえ。代々、人の話には耳を傾けるようにというの教えがございます。父上もそれをお守りになると、私は信じています」


そのあともいくらか話したあと、後宮を出ていったあたしも子履も、表情は晴れていませんでした。子履は「私が生まれるのがあと10年早ければ、王様に謁見できる権利があったのでしょうか」とぼやいていました。

きっとあたしたちがもう少し大人になっていれば、子履はもう少し斟鄩に留まっていろいろな人と交渉していたのでしょう。法芘ほうひは新年の挨拶のために斟鄩をあけてげんに行っていました。多分半月から1ヶ月くらいは戻らないでしょう。

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