第167話 喜鵵の待遇(2)

翌朝、喜鵵きつ喜㵗きびょう喜比きひの3人は、後ろに回した手首をきょう(※手錠のようなもの)で縛られ、土の上に座らされていました。そして、夏后履癸かこうりきをはじめ、重臣たちが続々とその刑場へ入ってきます。


「お前が、この斟鄩しんしんを滅ぼそうとしていた奴か」

「俺はただ、しゅを取り返しに来ただけだ!」


そう怒鳴り返した喜鵵を、後ろの兵士が「黙れ」と言って後ろ首に槍の先を当てます。喜鵵が一通り歯ぎしりすると、夏后履癸は面倒そうに片足を崩して立った姿勢で、言います。


「こいつはとりあえず死刑だ。以上。わしも琬琰えんえんと重要な会議をせねばならぬ」


と言って行こうとするのを、公孫猇こうそんこうが引き止めます。


「待ってください、陛下。この者は、陛下が地下に繋げている女の親でございます。女の父は、王よりも立場が上です。その意志を尊重するのが筋ではありませんか?」

「それはきさき(※正室)の話だ。后ならもういる。あの女はきさきだろう。妃の父がそんなに大切だというのか!」


この世界のことを一夫多妻制と誤解する人も多いようですが、正確には后・妃として区別されます。王様の正式な嫁は后となり、妃はただ子供を産むのが主目的の存在として置かれます。先祖様の血を後世まで受け継ぐ、先祖や親を大切にするような教育がなされています。

それだけに、后と妃は権限も役割も異なります。妃をどれほど大切にするかは王様によってまちまちで、中には妃を持たないことをモットーとする王様もいます。しかし夏后履癸にとって、妃の存在はそれだけ軽いもののようです。通常は妃にとっては相手の男よりも親のほうが大切にもかかわらず、です。

さすがにまずいと思ったのか、何人かの重臣たちが夏后履癸を取り囲みます。真っ先に声をかけたのは、關龍逢かんりゅうほうでした。


「すべての人にとって親は最も尽くすべき大切な人です。そのことを理解できない者に一国の王はつとまりません。ましてやいっときでも愛する妃の親を冷遇するようなことがあれば、天下の恨みを買いましょう。人の親を大切にする徳ある王であると示すべきです」

「うるさい、この期に及んでまた聖人ごっこか」

「私も賛成でございます」


と言ったのは岐踵戎きしょうじゅうでした。振り返ってその顔を見た夏后履癸は、うなずきながらため息をつきます。


「では、わしはどうすればいいのだ」

「あの者は確かに妃の親であり大切にすべき対象ですが、同時に斟鄩を陥れようとした重罪人でもあります。死刑は避けるにしても、何らかの処罰は必要でしょう。これこそが一種の恩赦でございます。ここは私めに任せて‥‥」

「待ってくだされ、との。ここは親を無罪放免するべきです。喜珠を妃とする場合でもそうでない場合でも、親の意思は尊重すべきです」


關龍逢が慌てて止めますが、岐踵戎は鋭く一蹴します。


「なら、后妃こうひの親であれば誰でも気軽に斟鄩を襲っていいということですか?」

「それは‥」

「仁徳あふれる王であることも大切ですが、存亡の危機は厳しく罰せなければいけません。周辺各国はわがに戦争を仕掛け、負ければむすめを差し出すことで無罪放免となるのでしょうか。そのようなことをしたら各地で反乱が起き、夏は一気に衰退しますぞ。わたしがいいようにしましょう」

「そうだそうだ、すべて岐踵戎の好きにすべきだ」


夏后履癸まで相槌を打ってしまったので關龍逢は困惑して、それ以上何も言いませんでした。夏后履癸と岐踵戎が振り返ったところで、正面に羊玄ようげんが立ちはだかります。


「どのような悪人も三度許せば改心するという。徳ある王なら、これを理解しているだろう」


羊玄がそう言いましたが、岐踵戎は少し怖じけつきながらも、關龍逢のときよりは少し高い声で言い返します。


「それができないから帝鴻氏ていこうし渾沌こんどん、少コウ氏の窮奇きゅうき顓頊せんぎょく氏の檮杌とうこつ縉雲氏しんうんし饕餮とうてつが生まれたのであります(※いずれも名家や黄帝・五帝の子孫であるか、五帝時代に害をなした人たちの氏とあだ名。あだ名の語源は同名の妖怪や神からきている:渾沌は現代ではカオス・混乱状態をさすものとして使われているが、古代中国では妖怪の名前として書かれる。特に饕餮に関しては周囲が何度もなだめようとしたが聞き入れられなかったとある。なおしゅんがこれらを追放した)」

「口だけは達者だな」


羊玄はそう言って岐踵戎を睨みつけます。しかし続きの言葉がないのかため息をつくと、今度は夏后履癸をにらみます。


「決してこの者たちを殺すことのないように」

「ああ、わかった、わかった」


夏后履癸はやっつけ気味にそう言うと、乱暴に羊玄とすれ違います。振り向いた羊玄は、ひたすら岐踵戎の背中を睨みつけていました。


◆ ◆ ◆


地下の真っ暗な部屋に火をともして、おりの中でぼうっとしている妺喜ばっきの姿がありました。ここはもともと虎や獣を飼うための場所で、正確には後宮の建物本体ではなく、はなれの小さい建物にあります。本来は地上にあったのですが過去の王が獣の鳴き声がうるさいと言って、家臣たちの反対を振り切って地下に移設したのです。

妺喜も逃げたいのはやまやまでした。しかしあんの魔法は、周囲の物体や檻などに物理的に干渉することはできません。ときたび食事を運んでくる牢番を操ってしまえば出られるには出られるのですが、外側の人間もそれを承知しているようで、牢番は鍵を持っていませんし檻を開けることはできません。妺喜はぼうっと、たった1人の暗闇を無為に過ごしていました。


この空間で妺喜が最初に思い浮かんだのは、親の顔です。妺喜は斟鄩に来て伊摯いし子履しりに出会い、心を開き、様々な人と関係を持ち、終古しゅうことも親しくなりましたが、それよりも親と過ごした時間の方が長いのです。

父上、兄上、今どうしているのだろうかと、妺喜は、ほのかなともしびに当てられながらも真っ暗で何も見えない天井をただ眺めながら、静かに涙を流していました。皮肉にもこの空間の中で一番きれいに輝いている涙は、ひとつずつ頬を伝って落下していきます。それは美しい妺喜の一部分を物語るものでした。


足音がします。牢番が食事を持ってきたのでしょう。いつもより短い気がしますが、この空間にいるのなら時間の感覚を失っても仕方ありません。‥‥いつもの足音ではありません。3人‥4人分はあります。妺喜は顔を上げました。牢番が3人の人間を、向かいの牢に入れていました。

ここで何日も過ごしたのに、ようやく初めて知りました。妺喜自身が入っている檻から、牢番が使う廊下を隔てて、向かいにもう1つ檻があったのです。それは妺喜のいる空間よりは少々狭く見えましたが、暗闇なのでよく分かりません。

牢番の足音が小さくなったあと、相手がこう呼びかけてきます。


「珠か?」


という声で分かりました。これは間違いなく、喜鵵です。


「父上‥か?」

「ああ、父ちゃんだよ。捕まったみたいだ」

「なぜ?なぜ捕まったのじゃ?」


妺喜はあせるように檻をつかんで、がたがた動かします。喜鵵はあくまで冷静に、不自然なくらいに冷静に返しました。


「珠を助けに来たんだが、失敗して捕まった。ははは」


妺喜は「ばかなのじゃ」と言って、檻に頭をこすりつけて、真っ暗なものの少しのでこぼこはわかる地面を見て、力なく笑いました。

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