第29話 老丘の宿で寝ました
あたしを寝室に置いて、
そうして広間に戻ってソファーに座った任仲虺に、隣で待っていた子履が尋ねます。
「
「はい、薬もしっかり効いてますよ」
くすくす笑う任仲虺に対して、子履は「‥‥そうですか」と短くつぶやきます。
「今まで2人きりで寝たことはないでしょう?練習は必要ですよ」
「確かにそうですけど‥」
「あの寝室の一番奥のベッドにカーテンで仕切りを作って、擬似的に2人だけの部屋を作りました。わたくし、先程
「うう‥それは‥」
「カーテンで仕切ってるだけですから完全な密室ではないですよ?2人きりになる練習が必要では?」
「‥‥‥‥」
子履は言いづらそうにうつむきます。
「緊張しているのですか?」
その問いに、子履は首を横に振ります。
「‥‥このようなことを、やってよいのでしょうか‥」
「ずいぶん今更ですね。
「そうですが‥薬を盛って、相手が抵抗できなくするというのは気が引けます」
「これまでも身分差で押してましたね。履さんはあまり気になさってなかったようですが、摯さんは相当気にしてましたよ」
「‥‥‥‥」
まだも暗い顔をする子履の背中を、任仲虺はそっと触ります。しかし子履はそれを嫌うように、反射的に身をよじります。
「どうしましたか?」
「‥‥背中は‥摯以外に触られたくないです」
「‥分かりました」
任仲虺は手を引っ込めて、ソファーに深くもたれて斜め上を見上げます。きれいな模様の描かれた天井がありました。黄色く描かれている竜のような生物は、五帝の最初の帝であったといわれる
「‥履さんは、なぜ摯さんにそこまで執着なさるのですか?」
「
「占卜だけでは、そこまで積極的にならないでしょう。普段おとなしい履さんを突き動かす何かが、摯さんにあったんでしょう?」
「摯は、私を何度も
子履が胸に手を当てて興奮気味に語るのを見て、任仲虺はふうっと息をつきました。
「‥それでは質問をかえてもよいでしょうか」
「はい」
「摯さんにとって、履さんと付き合うメリットはあるでしょうか?摯さんは士大夫になりたくないと言っていましたが、それ以外にメリットはありますか?」
それを聞いて、子履の笑顔が一気に引き締まります。一気に固くなる子履を見て、任仲虺は笑顔のまま、その肩に手を置きます。
「作戦を変えたくなったらいつでも相談に来てくださいね。‥でも今回は、せっかく薬も盛ったのですし最後までやるべきだと思いますよ。その後のことは明日また決めましょう」
「‥‥‥‥はい」
任仲虺の足音が遠ざかります。しかしまた近くなります。紙コップに入ったジュースを持ってきてくれたのでした。
「桃のジュースですよ。履さん、好きでしょう」
「‥‥ありがとうございます」
作り笑顔でそれを受け取った子履は、それをゆっくり飲みます。一息ついた後、子履はソファーから立ち上がります。
「‥‥今夜、私は悪い人になりますね」
◆ ◆ ◆
気がつくと、あたしは青空の下にいました。足元を見ると、赤い上靴を履いています。そして地面はコンクリートです。
あたりを見回します。細長く広い四角形のスペースは、身長を超える高い網で囲まれています。網の外を見ると、はるか下の運動場で生徒たちが遊んでいるのが見えます。
「‥ここは、前世?」
前世で通っていた高校の屋上が、まさにそれでした。服装も冬の制服です。セーラー服にスカートを穿いています。なんというなつかしい光景でしょう。あたしはその何年かぶりのコンクリートを踏みしめます。
ふと、屋上の入り口の階段あたりから女の子の泣き声が聞こえます。あたしはそこへ近づいてみます。踊り場の隅で、漆黒の髪を伸ばした女の子が、顔を手で押さえてすすり泣きをしていました。
「‥大丈夫?」
しかしその子は泣き止みません。見ると、すぐそばで弁当箱が逆さになっていました。散乱するご飯の潰れ具合を見るに、いくつもの足跡が散見されます。誰かが踏みつけたのでしょう。
とたんにあたしは、左手に重みを感じます。なんとなく左手を見ると、そこにはまっさらできれいな弁当箱の2つ入った手提げかばんがありました。なぜ持っているのでしょう、いえ夢の中ですから細かいことは考えてはいけません。
あたしはしゃがんて、女の子の背中をなでます。
「大丈夫、大丈夫だよ」
女の子は少しずつ泣き声を落とし、ゆっくりと顔から手を離します。前髪が長すぎて、顔がよく見えません。しかし髪の毛の隙間から、何かがきらっと光を反射しているのが見えましたので、おそらく前は見えているのでしょう。このような顔つきはよく覚えてませんから、初対面の子かもしれません。初対面だろうが遠慮はいりません。優しくしてあげます。
「階段上って、ほらご飯食べよう」
「‥ですが、私の弁当は‥」
「大丈夫、あたし2人分持ってるから」
女の子はあたしに促されて、ゆっくり立ち上がります。
‥あれ?今の女の子の声、どこかで聞いたことがあるような‥。なんて思っていると、女の子があたしをじーっと見ていたので考えるのをやめます。
あたしが階段を上ると、女の子も黙々とついてきてくれます。
屋上まで上がると、適当なベンチに座ります。女の子も隣りに座ったので、あたしは「はい」と弁当箱を差し出します。
「はい、あげる。あたしはあたしの分があるから」
「‥‥っ」
女の子は、あたしから受け取った弁当箱を両手で握って、ぶるぶる揺らしていました。
「はい、お箸。‥‥ん?」
女の子がぼろぼろ涙を流しているのを見ると、あたしはお箸をかばんに戻して、その背中を何度もなでます。
「大丈夫、大丈夫だから、ほら?」
「‥‥‥‥あっ」
女の子が落ち着くまで、あたしはとにかくその背中を優しくなでます。時々頭もなでてあげます。女の子はあたしの手に従順になっていました。
「‥‥あっ、あ、あっ、あ‥‥」
「大丈夫、何か吐きそう?」
「あ、あっ、あ、あり‥‥」
ああ、あたしにお礼を言おうとしているのですね。背中を優しく叩きます。
「あっ、あ、あ、あ、あっ、あり、あっ、あ‥‥
「‥‥ん?」
いきなり聞き慣れない単語が出てきたのであたしはたしろきますが、うつむいていた女の子は急に顔を上げて、早口で話し始めます。
「知っていますか?八王の乱。
待って、ちょっと待って。理解が追いつかない。何の話してるの?
めっちゃ早口なんですけど。ここまで早口だともう念仏か何かです。言葉ではなく、環境音のようにすら聞こえてきます。
「私は個人的に、八王の中では
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