第30話 馬車にて

鶏鳴けいめいの時刻になりました。旅館のベッドで寝ていたあたしは、ぱちりと目を覚まします。

八王の乱‥でしたか?あれは夢だったのでしょうか。結局、あの話は全く覚えていません。いつの時代に起きたかも、そもそも夢の中の話なので実話なのかよく分からないです。それにしても、夢に出てきたあの黒髪の女の子、前世でも見覚えがあるような気がします。誰だったんでしょう‥‥。

‥‥なんだか変な感じがします。前をよく見ると‥誰かがあたしのベッドの端で、あたしに背を向けて横になっているようでした。ていうかギリギリです。あとちょっとで落ちちゃいそうです。しかしその黒髪‥見覚えがありますね‥と思ってよく見たら子履しりでした。


「わっ!?」


びっくりして、逆にあたしがベッドから落ちてしまいます。布団も一緒に落ちたので腰はあまり痛くありませんでしたが、掛け布団がなくなって全身をあらわにしたそれは、間違いなく子履でした。えっ嘘、何で子履があたしのベッドで寝てるの?

と思ってふと後ろを見たら、カーテンでした。焦げ茶色のカーテンが、あたしと子履の寝ていたベッドを隔離しています。ていうここ、あたしが寝てたベッドじゃない、部屋の一番奥のベッドじゃん。えええっ。えっ。ちょっと待って。いろいろ理解できない。


「うーん‥」


子履にいろいろ言いたいことはありましたが、寝返りを打った子履の寝顔があまりにかわいかったので、あたしはその場で起こすのはやめました。顔だけはかわいいんですよね、顔だけは。落ちちゃうので子履の体を少し動かして、布団をかぶせます。

それからカーテンの外に出ます。任仲虺じんちゅうき及隶きゅうたいはまだ寝ているようでした。あたしは及隶を起こします。


「うーん、あとちょっと‥」

「公族より先に起きなさい」

「旅館だから気を使わなくてもいいっすよ‥」

「旅館だからどうとかは関係ないから。公族と同じ部屋で寝られるだけでもありがたいと思いなさい」

「うう、センパイは公族より厳しいっす‥」


無理やり起こした及隶は不機嫌そうに目をこすって、大きくあくびします。及隶の手を掴んで、その口を塞がせます。


◆ ◆ ◆


馬車にはあたし、任仲虺、及隶、子履の4人が揃っているでしょうからそこで追及しましょう、と思いましたが、なぜか今、あたしと及隶の2人しかいません。子履は任仲虺と一緒に、せつの馬車に乗っています。


「貸し切りっすね、センパイ!」

「ああ‥あまり汚さないでもらえるといいけど」


誰かに見られたら叱られるのではないかというありもない不安が頭をよぎります。

ちなみに子履からは、古代中国の馬車は屋根だけついていて壁のないものが多かったと言われましたが、この世界の馬車はヨーロッパ風なのでぱっちり壁があります。四方をちゃんと壁に囲まれていますが、外を見るために窓がついています。

市場などは堀や壁の中にある都市部にありますが、農地はそうではありません。平地いっぱいに壮大な田園が並ぶ風景を見ながら、あたしたちは地図の右側、西へ進んでいました(※この世界の地図は南が上にある)。


子履があたしをこの馬車に置いて別の馬車へ行くと言い出した時は珍しいこともあるんだなあとあたしは思いましたが、どうせすぐ戻ってくるだろうとたかをくくっていました。しかし、いつまでたっても戻ってきません。もうすぐ昼になります。

あたしの中では不安がこみあげてきます。確かにあたしは士大夫にはなりたくないけど、日中あれだけべたべたくっついてきていた子履は、もしかしてあたしに飽きてしまったのでしょうか。いいえ、何か大切な話をしているに違いありません。‥‥あたしに聞かれたくないような大切な話とは一体何なのでしょうか。


「センパイ、大丈夫っすか?」


及隶があたしの顔を覗いてきます。ということは、あたしの気持ちが顔に出てしまったのでしょうか。子履のことを考えていたなんて知られたくないのでどうにかごまかせないかと思っていましたが、及隶がすかさず尋ねてきました。


「お嬢様のこと、考えてたっすか?」


あたしはびくっと上半身を動かします。見透かされていましたが、あたしは恥ずかしさから激しめに首を振ります。


「考えてたっすね」


及隶がまた聞いてきます。


「うるさいよ、たい

「隶は知ってるっすよ。センパイ、お嬢様のことが好きっすね」

「ど、どうしてそうなるの」


及隶はしてやったりのような、にやついた笑いを浮かべていました。気持ち悪いんですけど。


「センパイはいつもお嬢様のことを見ているような気がするっす」

「そ、それはあたしが様の使用人だからよ」

「お嬢様の話ばかりするっす」

「履様との結婚を阻止するための作戦を考えてたからよ」

「お嬢様に抱きつかれても拒否しないっす」

「身分の差があるから拒否できないだけよ」

「なんだかんだで、お嬢様が泣いている時はなぐさめてあげてるし、困っている時は守ってあげてるっす」

「困ってる人は放っておけないからよ、婚約者だからとかは関係ないし」

「センパイ、顔にやけてるっす」

「‥‥!!」


あたしははっと目を丸くします。椅子に座っているだけで特に体を動かしてないはずなのに、急に心臓の高鳴りを感じます。目の前の及隶の顔はいやらしいですが、言われたことは全て事実のような気がしてきて、それ以上の言葉が出てきません。


「‥‥‥‥」


あたしは本当は子履のことが好きなのでしょうか。確かに子履の行動にどきめくことはありましたが‥それらはあくまで不意をつかれたものです。特に意識してるとかは、ないはずです。‥‥果たしてそうなのでしょうか。及隶のちょっとしたいたずらのせいで、自分の気持ちが一気に整理できなくなります。


「‥‥隶」

「どうしたっすか、両想い中のセンパイ?」

「うるさい、やめてよ。まだ認めたわけじゃないから」


あたしは小さくため息をついて、いくらかの間を置いてから続けます。


「‥とちらにしろ士大夫になりたくないのは本当だから‥‥、今まで通りあたしの味方をしてくれるかな?」

「はぁ、もちろんっす」


及隶はどこか不満だったのか、ため息交じりに曖昧な声で返事してきました。


‥‥でもあたし、別に女好きなわけじゃないんだけどな。あたしにその気はないはずです。普通に男が好きです。身分のこともありますが、そうした意味でも子履とは距離を置きたいのです。


◆ ◆ ◆


昼食を食べ終えてしばらくしてから、子履と任仲虺はようやく戻ってきました。

まず子履が馬車に入ってきて、あたしの隣に座る‥‥かと思いきや、向かいの及隶の隣に座りました。あたしが思わず「えっ」と声を出している間に、任仲虺があたしの隣に座ります。

えっ、何で?えっ‥‥。


馬車が出発してから、あたしは思い切って尋ねてみます。


「履様」

「どうしましたか?」

「その‥あたしの隣には座らないのですか?」

「座ってもよいのですか?」


首を傾ける子履が口を少しだけ開いて尋ねる時の表情がどこか色っぽくて、あたしはごまかすように目線をそらします。


「‥‥いえ、そういう意味ではございませんが‥」


あまりの衝撃に、今朝のベッドの件を尋ねるタイミングが掴めませんでした。それだけ、これまでの子履がべたべた磁石のようにくっついてきていたのです。

えっと、子履はさっきまで任仲虺と2人きりでしたよね?事情知ってますね?あたしはこっそり、隣の任仲虺に尋ねます。


「履様に何があったのでしょうか?あたしの隣に座らないなんて‥」

「あら、隣りに座ってほしいのですか?」

「いえ、そういう意味では決してないです」

「ふふ、何があったのでしょうね」


任仲虺がはぐらかしてきます。余計気になります。本当に何があったのでしょう。あたしは子履にばれないように、ちらちらと見てその姿を拝みます。最高に気分が悪いです。


「そうだ、薛の国に代々伝わる昔話でもいたしましょうか」


任仲虺が話題を振ってきましたので、馬車の中ではあまり退屈しませんでした。ですが、時々あたしと子履との距離を思い出してしまい、不安になってくるのです。

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