第8章 子履、夏台に幽閉される

第237話 ひなげしの花をもらいました

気がつくと、あたしは荒野の真ん中に立っていました。空は真っ黒ですが、不思議と周りの景色は見えます。


なんだろう‥‥何年か前、斟鄩しんしん郊外の川で魔法を使った時に見た景色と似ています(※第73~74話参照)。それを思い出すと、これは夢だと分かっていても、妙な寒気を感じます。


足を動かしてみます。むぎゅっと、何かやわらかいものを踏みます。あたしはそれを見下ろして‥‥口から出そうになるものを手で塞ぎます。男の死体でした。

見上げると、地面だと思っていたものは‥‥すべて人間の倒れているものでした。‥‥あっけにとられているうちに、一つのことに気づきました。人間たちの着ているものは、漢服ではありません。あたしの前世の洋服に似ていますが、少し古っぽい‥‥何百年か前のヨーロッパの服と言われると納得できそうなデザインです。

みな、普段着を着ているようでした。シャツ、コート、ズボン、スカート、ワンピース、帽子。どれも、あたしがこの世界に伊摯いしとして生まれてから一度も見たことのないものです。‥‥見ました。陽城ようじょう近くのむらで芸をしている男の子が着ていました(※第200話参照)。


一体これは何でしょうか。あたしは、自分自身が呼吸しているのを感じます。微妙なそよ風も感じます。ただの夢で片付けるにはあまりに不気味です。

と、後ろに気配がしたので、慌てて振り返ります。


そこには、真っ白な髪の毛、真っ白な着物を着て杖をついている老爺がいました。腰も少し曲がっていますが痩せているわけではなく、体は大きいです。若い時にたくさん戦ったかのような丈夫な体でした。

その老爺は、一歩一歩あたしに近づいてきます。一じょう(※約3メートル)ほど近づいてきたところで、あたしが耐えきれずに質問してしまうと、老爺は立ち止まってしまいました。


「これは‥この人たちは一体何ですか?」

「ヤツに殺された人たちだ」

「ヤツって‥‥?」


あたしの質問に老爺は答えず、「そしてこの世界は、このあとヤツに浄化されるだろう」と言いました。近くで見ると目がたいそう鋭く、あたしを睨みつけているように見えました。


「あなたは一体誰ですか?」

伏羲ふくぎだ。今は人の姿をしているのだがな」

「人間ではないのですか?」


あたしの質問に、一度は死体の山を見かけた老爺がもう一度振り向きます。


三皇さんこうは知ってるのか?」

「‥‥ああっ、大変失礼しました」


あたしは地面に膝をつけてはいします。死体を見て動転していたので、そこまですぐには気が回りませんでした。


「そうでなくても、年上や老人に敬意を払うのはこの世界のルールだ。素が出たな」

「たた、大変申し訳ございません‥‥!」

「まあ、時間も惜しい」


老爺の姿をした伏羲は杖で地面を突きます。なにかが起こるというわけでもなく、伏羲は死体の山を睨んでいました。


「何があっても、革命(※ここでは単に王朝が変わることをさす)だけは絶対に起こすな。ヤツは罪のない人間を10億人も皆殺しにしたのだ。このような殺戮をしたヤツの言いなりになってはいけない。ヤツはお前が思っている以上におそろしく無責任で、命の重みをまるで分かっていない」


なにか‥批判めいた言葉が並びますが、一体何の話をしているのかあたしには理解できません。「あの‥」と声をかけますが、伏羲は再度あたしを向いて怒鳴ります。


「革命は絶対に起こさないと誓えるか?」

「は、はい‥誓います」

「『革命は絶対に起こさない』と言ってみろ」

「革命は‥絶対に起こしません」


誓うもなにも、それが子履しりの方針です。子履もあたしも前世の価値観を共有していますから、子履が心変わりするとは思いませんし、あたしも革命戦争を起こすべきとは思っていません。

あたしの返事に伏羲は滿足したようで、「その言葉、忘れるでないぞ」と言いました。


「あの‥ヤツとは誰ですか?」

「ああ、言ってなかったな」


伏羲は首の後ろをぼりぼりかいてから、続けます。


「ヤツの名は‥‥

「センパイ、朝っすよー!」


ゆさゆさと体を揺すられる感覚がして、意識が途切れて‥また取り戻します。

はっと目が覚めて、‥それからゆっくり身を起こします。目をこすって窓を見ます。まだ真っ暗です。にわとりの鳴き声は‥‥聞こえますがかすかだけです。鶏鳴けいめいの時というには少し早いです。


「どうしたの、こんな時間に」

「今日は元旦っすよ!」

「ああ‥‥そうだったね、ありがとう」


そうです、今日は元旦。今日からの4年(※王の即位年を元年がんねんとする、王の名を利用した年号的表現)が始まります。子履の三年の喪の終了と同時に、子履自身は斟鄩へ向かわなければいけません。

と思っていたのですがその直前、ちょうど昨日に連絡が来て、斟鄩ではなく陽城ようじょう(※現代中国の河南省かなんしょう鄭州市ていしゅうし登封市とうほうし付近)でいいとのことです。陽城とは、斟鄩から山を隔てて南東にある都市で、昔はの首都になったこともある場所だそうです。距離があることには変わりありませんがはくから見れば斟鄩より微妙に近く、子履が早く帰ってこれるという意味でもありました。それを聞いて、あたしはほっとしています。本当はそんな用事ないのが一番ですけど、しょうは夏の家来ですし、これくらい仕方ないものです。


着替えて駆けつけてみると、屋敷の玄関前のロータリーで、子履が馬車に乗り込むところでした。


「履様、遅れてすみません!」

「‥あっ、。待ってましたよ」


このときの子履はいつも通りに、そしてどこかさみしげな表情を浮かべていました。あたしと正月を過ごせなくなってしまうからですね。


「正月なら来年もありますから、気負わず。三年の喪が終わっていきなりこのようなことになるのは残念ですけど、帰ったら思いっきりお話しましょう」

「帰ってこれたら‥‥ですね」


子履はうつろな目をしたまま何度かうなずきます。どこか意味ありげに聞こえます。あたしはにわかに不安になってきます。


「履様‥」

「摯」


そう言って、子履は懐から一輪の花を取り出します。‥‥暗くてよく見えなかったからでしょうか、それは本物の花ではなく造花に見えました。色はよく見えませんが、赤みかかった色に見えます。


「私、これを心を込めて作りました。これは私からあなたへの気持ちです。一つしかありませんが‥」

「ありがとうございます。暗くて見えないのですが、何の花ですか?」

「ヒナゲシです」

「‥‥ああ、前世、あたしがあげていた花ですね」

「はい」


子履は力の抜けたようににっこり笑います。そして、あたしが造花を持つ手をやさしく包み込みます。


「摯」

「はい、どうかしましたか」

「もし何かあればせん(※子履の妹)を立ててください」

「‥‥はい」


まあ、子履が出かけている間も朝廷はありますからね、その時は子履の代わりに子亘と相談しなさいということですね。あたし、たてに家臣をやっているわけではないですよ。えへん。


「それから、一つ誓ってほしいことがあります」

「はい」

「何があっても、革命は絶対に起こさないことです」


建寅けんいんの月(※グレゴリオ暦2月相当。この世界ではこれが正月である)だからでしょうか‥‥それを言われた瞬間、あたしは寒気を感じます。夢の中で伏羲と名乗る老爺に言われたことと同じなのです。‥‥一種の予知夢のようなものでしょうか。


「‥履様、つらかったらあたしが代わりに行きますよ」

「いいえ。私のための用事です。私が行けば丸く収まりますから」

「やっぱりあたしも同行したほうが‥‥」

「摯にも大切な仕事があるでしょう。いい報告、待ってますよ」


にっこり笑って、子履はそのまま馬車の中に入ってしまいました。

そのまま、馬車は出発していきました。馬車は少しずつ小さく、小さく。窓から子履の様子がかすかに見えましたが、子履は振り返ることもせず、ただ後ろ頭だけをあたしに見せていました。


何でしょう、この胸騒ぎは。

嫌な予感がします。

‥‥‥‥やっぱり、物産展を終わらせたらすぐ迎えに行きましょう。ほら、あれですし。王様が城に戻ってくるときは家臣一同城から出て迎えるのがならわしですし。この世界に立派な城はまだないんですけどね。

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