第128話 羊辛と会いました

学園が明日に始まるというのに、子履しりはこれまた慌ただしく、あたしと及隶きゅうたいを引っ張って法芘ほうひの家に行きます。いつものあれです。子履はの家臣と面識を作りたがっているのです。

今回は及隶も貴族になったので、馬車で留守番はさせず、一緒に会わせます。だからといって及隶は子供ですから、あたしが見守らなくちゃいけません。及隶はあたしの1つ下なのに、頭も体もあたしから一気に歳が離れて幼くなったような感じです。あっ、あたしに前世の記憶があるからあたしが大人すぎるのかもしれません。

控室代わりの応接室で待っていると、法芘が入ってきます。


「もうすぐ準備が終わる。ささ、どうぞこちらへ。今日のゲストは大物だぞ」

「ありがとうございます。大物とはどちらさまでしょうか」


と、上品に椅子から立ち上がった子履に、法芘は言い放ちます。


「ああ、右大臣羊玄ようげんの息子の羊辛ようしんだ」(※『呂氏春秋』には羊辛のほかにも干辛かんしんという人物が登場するが、本作では同一人物とみなして扱い、羊辛の表記を採用する)


なるほど、右大臣の息子ですか。これは大物ですね。この世界にある国は夏とその他大勢の組み合わせですから、しょうももちろん小国です。そんな商の公子と会う予定を入れてくれただけでも快挙かもしれません。

よかったですね、子履。と思ってそちらを見ると、なぜか子履は不機嫌でした。法芘は名前だけ告げると先に行ってしまったようでその顔は見ていません。代わりにあたしが尋ねます。


「履様、右大臣に関して何かお気に触ることでも?」

「‥‥。『呂氏春秋』では、夏の奸臣かんしんとして2人の名を挙げています。1人は岐踵戎きしょうじゅう、そしてもう1人が羊辛です(※夏桀染於干辛・岐踵戎 …… 此四王者所染不当。故国残身死、為天下僇。挙天下之不義辱人、必称此四王者/当該部分では他に殷紂いんちゅう、周のれい王・ゆう王を挙げ、あわせて四王としている)。この2人はけつ(※夏后履癸かこうりきをさす)にへつらい、政治を乱し、夏の滅亡を早めました。そんな1人が今ここにいるのです。これは正念場です。最低でも複数回面会する約束を取り付けなければいけません」

「まさか。妺喜ばっき様もいい人でしたし、考え過ぎなのでは。ましてあの羊玄様の子です、悪いことはできないと思いますよ」

しん嬴政えいせい嬴胡亥えいこがいがあり、蜀漢しょっかん劉備りゅうび劉禅りゅうぜんがあり、ずい楊堅ようけん楊広ようこうがありました(※すべて父は王朝をたてる偉業をなしたが、子が暗愚のためにほぼ二代で王朝を滅ぼした)。しっかり教育させられる皇帝ですら暗愚なのはよくあることですから、ましてや臣下の中にそうでないものがありましょうか。血はつながっていても政治力は全くの別人とみなすべきです」


うへえ、あたしそこまで詳しくないですよ。歴史的に前例があるのならおそらくそうなんでしょう。黙って従うのがいいかもしれません。


◆ ◆ ◆


奥の部屋に通されます。奥の席に椅子が2つあって、片方に好青年がいました。この人がくだんの羊辛なのでしょう。子履とあたしは挨拶して、子履は羊辛の隣に、あたしは子履とテーブルの角を挟んで横に、及隶はあたしの横に座ります。


「商の公子の子履でございます」

「羊辛です。よろしくおねがいします。乾杯といきましょうか」

「はい」


子履があれだけ言っていたのに、当の羊辛はおもいっきり礼儀正しく見えます。悪者って人の目を避けるために礼儀正しく振る舞う人も多いのでしょうか。あたしにとっては、ただの好青年以上の感想しかないです。だって中国史とか知らないですし。

そうやってフリートークが始まります。子履はまず生活や身の回りの話から始めて徐々に距離を詰めていきます。これまでに何度か法芘の屋敷でこのような面会を経験しているのですから、慣れた手付きです。羊辛もよく笑って、話は盛り上がります。


「ところで最近の天変地異についてはどう思われますか?」


子履がさりげなく話題を振ります。いきなり夏王さまの話をするわけにもいかないですよね。


「天から与えられた試練だと思いますよ。われわれ家臣は手を組んで、これを乗り越えるしかありません」

「そのなかで、羊辛様は何をしてらっしゃいますか?」

「父上ともよく相談して、現地へ視察に行ったり民の声を聞き入れたりし、必要な施策を検討していますよ。ここだけの話、陛下があまりお働きにならないので」

「ふふ」


あれ、なんだか普通に頑張ってまじめに働いているっていう印象を受けます。悪い人はみんなそうやってごまかしているのかな?と思って子履の顔色を見ると、子履はなぜか戸惑っているらしく、眉毛をひそめて唇を噛んでいます。


「‥‥羊辛様には出世欲のようなものはございませんか?」

「まさか。父上以上の官職はないでしょうし、大した能力もないのに父上と同じ官職につくことさえおこがましいですよ。十分に恩も財産もたまっております。もっとも、その私財もこの冷害のために使っているところです。わが羊氏は少康しょうこう(※の過去の王。寒浞かんさくから夏を取り戻した)のときから代々夏のために仕え、夏に尽くしてまいりました。私が汚い欲望で名を穢すと、私だけでなく(※少康の次の王)の中興を後押しし、かい(※予の次の王)の代に九夷きゅういを従えさせた(※現代中国の山東省さんとうしょう河北省かほくしょうにあたる地域を夏に従属させたことをいう。九夷は「東方にある9の部落」の意味)代々の王の偉業を補助したご先祖様の名を穢すことにも繋がります。由緒ある家柄の子がそのようなことを考えるのは、四凶しきょう(※共工きょうこう驩兜かんとうこん三苗さんびょうをさす。五帝のしゅんに追放された4柱の悪神)の犯した罪を上回るものでしょう」


そこまで言うのでこれ以上聞くのは野暮だと思ったのか、子履の質問は夏の政策に軸を移していきます。しばらく話して、用意してあった酒がなくなったところでおひらきになりました。


◆ ◆ ◆


「おかしいですね‥‥」


馬車に乗って、あたしの向かいに座る子履は首を傾げています。生まれてはじめて貴族の豪華な食事を食べた及隶は、あたしの膝の上でよだれを垂らしながらくっすり寝てしまっています。


「羊辛様はどうでしたか」

「怪しいところはまったく見つかりませんでした」

「ところでこの馬車はどちらに向かっているのでしょうか?学園はあちらですよ」

「羊辛様が実際に来たという場所へ行って、羊辛様の客観的な評価を聞きたいのです」

「履様は疑い深いですね」


あたしの言葉に子履は何も反応せず、目を凝らしながら馬車の窓に映る街の様子を眺めていました。郊外までくると歩く人はみなやせ細っていて、道路は荒れ、建物にはひびが入っていました。時々、大通りのはずなのに骸骨が転がっているのが見えました。斟鄩しんしんから商丘しょうきゅうへ、商丘から斟鄩へ移動する時によく見かける光景ではありますが、やっと斟鄩学園に到着して当面は見なくていいと思っていた景色を数日後にまた見せられるのですからダメージがあります。


しかもここで馬車を降ります。今まで窓越しに見てきた風景がすぐ目の前にあって気分が悪いです。少しして、これはしんで子履に出会うまでの間、毎日のように何度も見てきた風景であることを思い出しました。あれ‥‥。あたし、貴族の生活に慣れてしまってる‥‥?もう目の前の光景よりもそれが恐怖でした。

それをごまかすように目の前の壁にもたれてくったりしている人に大丈夫ですか?と声をかけようとして、くっとこらえます。大丈夫ですか?と聞いたところで、あたしにできることはありません。莘でも仕方なく放置してきた人たちです。

と思ったら子履がためらいなく尋ねます。


「すみません、羊辛のことは知っていますか?」

「羊辛‥‥ああ、あの男のことか。何日か前、ここに来ていろんな人から話を聞いてたよ」

「印象はどうでしたか?」

「細かいところにも気を配る男でさ、服が破れているのを直さないかとかさ。あとは、ここを通った人が荷物を落とした時に羊辛様自らが拾われて返したんだ。間違いなくいい人だよ」


子履は次の人にも、次の人にも、遠慮なく聞いていきます。


「あんた、羊辛様の悪いところを探してるのかね?おやめになったほうがいいよ。月に一度はここに来るんだ。あんなまめな貴族は見たことないねえ」

「宮廷の中でも人気があるらしいよ。お前さんも貴族なら、他の貴族に聞いてみたらどうだい?」


あれこれ細かいところまで聞いて回ってしばらくして馬車に戻った時の子履は、すっかりくたびれた様子でした。


「‥‥私としたことが、趙高ちょうこうのようなことをしてしまいました。趙高もこうやって李斯の悪いところを探していたものですね」(※しんの趙高が李斯りしを失脚させるために徹底的に身辺調査を行った故事をいう。なお李斯は勤倹力行だったためなかなか見つけられなかった)


子履はそう独り言のようにぼやいてから窓の外を眺めます。外では相変わらず貧乏な人達が歩いているのが見えます。


「他の貴族にも改めて羊辛のことを聞かなければいけませんね」


おいおいまだ納得してないんかい。一緒に聞いていたあたしから見れば羊辛はすでに素晴らしい家臣ですよ。子履にも思うところはあるかもしれませんが、あまり失礼なことをやりすぎないでほしいと、あたしはわずかに思うのでした。

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