第193話 夏后淳維の亡命(4) ~商
「狙われているとは、どういうことだ?」
「殿下を捕らえて
「しかし‥‥」
と言って、夏后淳維は先ほど
「早くしてください。抜け道なら私が案内いたします」
「しかし‥‥」
「どうされたのですか、殿下」
その男の声に反応して、
「ああ‥‥この男が、私に逃げろと言うんだ。商守が私を捕らえるために、この亭のまわりに兵を置いているらしい」
「それで、殿下はどうなさいたいのですか?」
「ああ、それはだな‥‥」
と、夏后淳維は言葉を濁します。その背後にいつのまにか現れていた馬諬は、てきぱきと2人の兵士を急ぎ呼び出して、指示を出します。もちろんこの2人は、亭に軍隊は無用と言っていた夏后淳維に隠れてこっそり連れてきていたのです。そして、他の2人は寝巻だというのに馬諬1人だけ鎧をしっかり身につけています。
「馬諬。ここは戦場ではないぞ。いつまで鎧をつけている?」
「殿下。お友達ごっこはもう終わりですぞ。1人に見に行かせたところ、この亭の周囲に見張りというには多くの兵がいるのは事実です。つい先ほど見に行かせ、その結果をこれから殿下に報告しようと思っていたところです。手遅れになる前に逃げましょう」
「馬諬はなぜいつも勝手なことをするのだ?罪のない使者を捕らえるだけで飽き足らず、ここに勝手に兵士を連れ込んできて‥‥」
「あなたは命よりも小言が大事なのですか?今すぐここを離れるべきです!手はずは整っております!」
「何を勝手なことを‥‥」
そうやって抵抗する夏后淳維に、後ろから陳大がいさめます。
「殿下。私も馬諬と同意見です。ここに残っていては、殿下もいずれ殺されるでしょう。小さいことにこだわっていては、待つのは死のみです。時間はありません、早くしましょう」
「お前たちが浮足立っているだけだ。金洪も何か言ってくれ」
「殿下はいつから陛下のように愚鈍になったのですか?」
「馬諬は黙ってくれ」
馬諬が何かやじをとばすたびに夏后淳維の機嫌が悪くなります。ついに地団駄を踏み始めますが、金洪は手首を掴んでたじなめます。
「時間はありません。やるやらないを議論する時間があれば、早く逃げるべきです」
「金洪まで同意見なのか‥‥」
ためらうように少し目をつむりますが、馬諬の「はや‥」という口をふさぐ陳大に「殿下、ご決意を」とたじなめられます。
「分かった。ここを離れよう」
「よくご決意なさいました。では私が手はずを整えていますので、この男に従ってまずは亭を脱出しましょう。西の方に旅団を3つ(※1旅団あたり500人。3000人の兵は6旅団に相当するので、その半数となる)揃えていますので、そこへ逃げ込みましょう」
馬諬は止まりもせずすらすらと早口で説明して、早足で歩きだします。夏后淳維が「待て」と言っても止まりませんので、小走りでついていきます。
夜中の道を、夏后淳維たちは男の案内のもと、建物の隙間を抜け、人が1人通れそうなくらい大きな溝を泳いで柵を抜けて、亭の西に控えている旅団の中に紛れ込むと鎧を身に着けます。
この世界の都市は、三国時代の中国のように大きな城壁に囲まれているわけではありません。人の身長くらいの小さい土塀と空堀で囲まれているのが普通です。中には木の柵、そして塀すらない都市も存在します。そんなところに門番はいるのですが、壁を取り壊したりよじのぼったりしても案外ばれません。なぜならこの商の兵士は大半が亭の周りに集まっているからです。
「本当だったのだな‥‥」
少し高台まで上って、自分がこれまでいた亭の周囲の様子を眺めていた夏后淳維は、唖然としていました。父が自分を狙っているという事実を、まだ信じられずにいました。しかし兵士たちが門を開けて、槍を持って次々と亭に突っ込んでいく様子を見ると、その認識が合っていないことを認めざるを得ません。
「殿下、何をなさっているのですか。すぐ近くの土塀をくずして空堀を埋めましたので、早く逃げましょう」
「あ、ああ‥‥」
誰か兵士が持ってきた馬を手に引きながら、夏后淳維は兵士たちに紛れて壁に向かいます。本来、三千の兵士たちは都市の外で陣を作って待機するはずだったのが、馬諬が夏后淳維の護衛のためにとこの都市に入れられるだけ入れてしまったのです。夏后淳維もそれを知っていましたが、この結果にあっては怒れるに怒れません。すぐ近くにいた馬諬から目を背けて、三日月に照らされる薄暗い夜の中で、ただ前の兵士たちに合わせて歩きます。
壁の近くまで来たところで、後ろから兵が走ってきて、夏后淳維に報告します。
「申し上げます。私達の存在が敵に気づかれました。追ってきています。すでに後方では戦闘が始まっています」
「戦闘!?私は父上とは戦いたくない。陳大、急がせてくれ」
「はい」
陳大、金洪が兵士たちに声をかけて、小走りで歩かせます。次々と兵士たちが、崩れた壁から外に出ます。夏后淳維も、弓なりにしなってしまっていた土の橋をこえると馬に乗ります。あとからは、血を流している兵士たちが少しずつ増えてきます。
「ここから少し離れたところで陣を作って休みましょう」
馬諬が言ってきますが、夏后淳維は振り返ることもせず「好きにしてくれ」と、肩を落としました。
◆ ◆ ◆
一方、
歩いている兵士たちに合わせて馬を歩かせながら、姜几は草原に挟まれた平和でなだらかな坂道を見て、ぼやきました。
「殿下はどこへ進んだのだ、もうすぐ
この2人は夏后淳維がどこまで軍を進めたか見張りに行かせましたが、それがいつまでたっても帰ってこないのです。何度も追加の見張りを出しましたが、ことごとく帰ってきません。見張りからの返事を待ちながら進軍していたら、もう咸陽の近くまで来てしまっていたのです。
「咸陽で歓迎でも受けているのだろうか。この旅のそもそものきっかけがあれだ、休息の時間は必要だろう」
「いや、それはない。道中の小都市の守たちも、殿下を捕らえよとの指令を受け取っていると言っていただろう。つまり咸陽の守も同じ指令を受け取り、殿下との交戦を準備している可能性が高い」
「それでは殿下は咸陽を避けたのか?」
「いや、咸陽を通らないと天水には行けないはずだ。この周りにある山を何だと思っている」
そこまで話したところで、8人ほどの男が息を切らして走ってきました。全員、見張りに行かせた男たちです。1~3日ずつ、1人ずつ出していた見張りたちがいっぺんにまとめて帰ってきたのです。
「お前たちを待っていたぞ、どうした、何か事件でもあったのか?」
「それが、殿下の軍が見当たらないのです。念のため咸陽の向こうも少し調べましたが、なしのつぶてで」
「そんな馬鹿な。では、殿下はこの道を通っていないということなのか?」
「
その報告を聞いて目を丸くした姜几は、韓敯と目を見合わせます。
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