第192話 夏后淳維の亡命(3) ~商

翌朝、夏后淳維かこうじゅんいらは洛の邑を南下し、伊水いすい(※斟鄩しんしんの南を流れる川の上流)を遡るように軍を進めることにしました。大きな遠回りになりますが、夏后淳維にとってはベストな選択でした。


宣陽せんようの兵と戦いたくはないが、斟鄩にも戻りたくはない。このまま(※黄河)に沿った道を進んでいれば、宣陽軍と鉢合わせになる。遠回りになるが、戦わずに済むのはこの道しかないだろう」

「お気持ちはわかりますが、ここからしょう(※子履しりらのいる商の国ならびに商丘しょうきゅうとは無関係。現代中国の陝西省せんせいしょう商洛市しょうらくし周辺をさす地名または国。しん公孫鞅こうそんおうが商に封じられた記録がある)を通って咸陽かんよう(※現代中国の陝西省咸陽市かんようし。のちの秦の首都として知られる)に抜けるのでしょう。道はかなり険しくなり、死者も多いと聞きます。本当にこの道を選ぶのでしょうか?」

「背に腹は代えられない。私はや父上とは戦いたくない」

「あのような命令が出ている時点で、すでに手遅れでは‥‥」


金洪きんこうが言いかけた言葉も聞かず、夏后淳維はひたすら前に進みました。


「あれはなにかの間違いなのだ。きっと商までの道で時間を食っている間に撤回してくれると信じている。これは父上が思い直すまでの時間稼ぎなのだ。我々は粛々と天水で業務すればよい」


洛の周辺は平坦な土地が広がっていましたが、伊水の上流へどんどんのぼっていくにつれて道は険しくなり、山道になり、疲れる兵士たちも多く出るようになりました。もともと戦いを想定しておらず、大変なのは洛の西と天水の手前だけだと見積もっていた軍隊です。休憩の回数は増え、進軍速度も遅くなっていました。

ある昼の休憩中に、馬諬ばけいが提案しました。


「軍をいったん洛まで戻し、当初の予定通りの道に戻るのです」

「それでは宣陽の軍と戦うことになるぞ」

「山登りで疲弊した軍を見て、何を言うのでしょうか。これはまだ序の口でこれから先、険しい道は続きます。そのあと、咸陽あたりで迎え撃たれるようなことがあれば、全滅は免れません。それよりも洛まで引き返して宣陽の軍と戦い、後ろから来る使者を殺しながら進む方がまだ望みはあります。まだ遅くはありません。今引き返せば7舎で済みます。ご決断を」

「それは私にはできない」


夏后淳維はためらうそぶりも見せずに即答しました。馬諬が「ですが‥‥」と言うものの、陳大ちんだいが中に割って入ります。


「失礼。殿下は天水に到着した後、何をしたいのでしょうか?」

「それはもちろん、じゅうとの戦いだ」

「しかし、その前に陛下から追撃されているのが現状であり、仮に天水にたどり着いたところで、前と後ろから挟み撃ちになることは目に見えています。まずはどちらか片方の問題を解決するのが先ではないでしょうか?」

「父上には面と向かって説得しても許してもらえないのがオチだ。天水から多数の侵略を防ぎ、信頼を取り戻すのが先決だ」


その返事に、陳大と金洪は顔を見合わせます。夏后淳維が「休憩終わり、進むぞ」と言ったところで、馬諬がそれを追いかけて提案します。


「今の斟鄩の現状を鑑みると、夏の政治はどんどん悪くなる一方で、陛下に望みは持てません。戎に帰順すべきと考えます」


それで夏后淳維は馬を止め、馬諬を振り返って激昂します。


「馬諬、自分が何を言っているのか分かってるのか?聞かなかったことにしよう」


そうやって背中を向ける夏后淳維を眺めて、家臣3人は困惑の表情を浮かべ、ため息をつくのでした。


◆ ◆ ◆


一方、洛の邑を少し過ぎたあたりには、姜几きょうき韓敯かんびんの軍が到着していました。彼らが軍の動きを止めていたのは、前方に新しい軍勢が見えたからです。最初は夏后淳維の軍かと思っていましたが、斥候を放って様子を見たところ、どうやらそうでないことが分かりました。夏とともに、宣陽の軍であることをあらわす旗がたっていました。

使者を通して簡単に挨拶した後、姜几・韓敯と宣陽のしゅ(※都市を守る官職。郡守ぐんしゅ太守たいしゅとも)は二軍の真ん中に集まって顔合わせしました。


「我々は陛下の命をうけて淳維殿下を追っている。君たちはここで何をしている?」

「同じように淳維殿下を待ち受けていたのです」


その守の返事に、姜几と韓敯はお互いの顔を見ます。命令通りに見ると、姜几・韓敯の軍と、宣陽の軍で挟み撃ちにすることになります。まさか夏后履癸がここまで周到に手を回すとは思っていませんでした。2人は守に聞こえないよう、ひそひそ話を始めます。


「それでは淳維殿下はどこに消えたのだろう?」

「おそらく宣陽軍より先にに沿って進んでいるのだろう」


2人はいくつか話し合った後、守にも今後のことを相談してみます。


「淳維殿下の軍はどこかに消えたに違いない。我々は後を追う。君たちは宣陽からあまり離れすぎると、治安維持ができなくなって面倒だろう。陛下には私の方から責任を持って報告しておくので、君たちは自分の都市に戻ってくれないか」

「分かりました」


守はあっさりうなずいて、軍を引き連れて宣陽に戻りました。夏后淳維を追いかける軍は自分たちだけにしたほうが、都合がいいのです。


「これからも挟み撃ちにしてくる軍がないとは限らない。淳維殿下の軍の様子見も兼ねて、念のため斥候を送っておこう」

「賛成だ」


2人はそこまで決めてから軍隊を河に沿った西の道のほうへ進めました。


◆ ◆ ◆


地元の人に道案内を頼み、山を登り、崖をよじ登り、猛獣を狩り、川を渡り、食料を運ぶ荷台の車輪を修理し、道なき道を進み、やっとこさ商に到着しました。

あれだけ苦労して山を進んだのが嘘のように、商にある建造物は、ここが人の住む世界であると自己主張しているようでした。


「駅(※馬の交換・宿泊などのために道中に建てられた施設)にも人はいたが、ようやくちゃんとした街へたどり着いた」

「そうですな。先人たちは、よくあんなところに道を作ろうと思いましたな」


そう陳大と話し合いながら、夏后淳維たちは商の守に挨拶するために、宮殿へ向かいました。


「殿下。馬上で失礼します。もしや、宮殿へ向かっているのでしょうか?」


ここで水を指してきたのが、馬諬でした。


「また馬諬か。次はどうした」

「殿下を殺せという指令は、この都市まで届いている可能性があります。用心に越したことはございません。万が一の場合は私めが守を殺しますので、歓迎の宴では守の近くの席に置いてください」

「馬諬はいちいち大袈裟なんだ。斟鄩から天水まで向かうのに、わざわざ商へ迂回する人はどこを探してもいないだろう。安心してくつろいてよい」

「ですが‥」


食い下がる馬諬を、夏后淳維は無視してため息をつきます。


商の守は好意的に夏后淳維を迎え、宴に誘いました。馬諬は言われなくても上座にいる守のすぐ斜め横の椅子を選びました。本来そこは商の守の配下が座る席なのですが、守は配下からの指摘に「お客様だ、そんな細かいことはよい」と言いました。どうせそこから追い出そうとしても小言を言うだろうと思って、夏后淳維は無視していました。しかし守を睨みながら食事をする馬諬に睨み返していたのは、夏后淳維でした。


楽しいはずなのに気が気ではない時間を終えて、ていの部屋に入る前に、寝間着に着替えた夏后淳維は、まだ武装している馬諬を廊下で叱りつけました。


「馬諬、お前の最近の行動は目に余る。いくら王の後継ぎと仲良しだろうが、失礼な行動は慎むべきだ」

「殿下。これは殿下の命がかかっておるのですぞ。臣下として見過ごしはできません」

「お前は全ての宴会でいちいち睨みをきかせるつもりなのか。兵の休息も必要だから数日はいるつもりだが、ここに滞在している間、商の人間との食事への同席を禁止する。1人で食べていなさい」

「‥‥はい」


そこまで話してようやくその場はお開きになり、馬諬は金洪に背中をさすられながらその場を去り、夏后淳維は「やれやれ」とこぼしながら部屋に入りました。

すぐにまた部屋のドアがノックされました。


「どうした、また馬諬が言い残したことでもあったのか」


そうやってドアを開けると、目の前には拝をしている男がいました。役人ではなく下働きしている平民のようで、身なりはあまり整っていません。


「どうした?」

「殿下。早くここからお逃げください。狙われております」

「なに?」


先ほど馬諬を似たような話で叱りつけた手前、夏后淳維の返事はひかえめでした。

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