第191話 夏后淳維の亡命(2) ~洛

馬車は、天水てんすいまで続く荒い山道を通るには時間がかかります。わざわざ貴人らしく馬車に乗るよりも、早く逃げることが最優先です。夏后淳維かこうじゅんいは馬車を斟鄩しんしんに置いて、馬に乗って三千の歩兵たちを引き連れて進んでいました。

斟鄩から2舎(※舎は兵隊が1日に進む距離をさす単位。しゅうの時代において、1舎は約12キロメートルとされる)西に移動すると、らくというむらがあります。ここは遠い将来、洛陽らくようまたは雒陽らくようと呼ばれることになる大きな集落であります。しかしそこも、今は魯積ろせきがことごとく討ち滅ぼしたあとの真っ黒な炭となった残骸の集まりでしかありません。


「むこい、これが人間のやることか」

「魯積という者がやったらしいのですが、おそらく妺喜ばっきに操られたのですな」

「そうとしか思えん。まったく、妺喜が来てから何もかも変わった」


馬を降りて呆然とその真っ黒な街を歩く夏后淳維と、その後ろを歩く金洪きんこうはそう話していました。襲撃と鏖殺おうさつは去年の話になりましたが、今もまだ生々しい様相を呈しています。さすがに別の邑から来た人たちが瓦礫をどかした跡がありますが、おそらく財産目当てでしょう。この周囲には、本当に兵士以外の人影は見当たりません。


「ここは斟鄩から2舎で切りのいい場所だったのだが、これでは野宿にしなければいけないな」


夏后淳維はそうぼやきました。


というわけで金洪、陳大ちんたいに命令して簡単な陣を作らせているところへ、馬諬ばけいが1人の兵士を連れてきました。


「どうした、馬諬。その人は?」

「捕虜でございます」


と言って、馬諬は兵士を地面に座らせました。


「捕虜とは?こやつは賊か何かなのか?」

「いいえ。斟鄩から宣陽せんよう(※洛邑からさらに2舎ほど西にある都市)へ向かっている使者です」

「なら我々とは無関係ではないのか?」


夏后淳維が訝しがると、馬諬は大声で抗議します。


「無関係というわけにはいきません。陛下は一時的にでも殿下の死を望んだことがあります。信用できないと考えるべきです。この使者は、殿下を逮捕するための出兵を宣陽に求めているかもしれません。拷問にでもかけて、伝言内容を吐かせるべきです」

「まさか。父上はこれまでに多数の人を殺してきた。確かに私が斟鄩に残っていれば可能性はあったが、私は自ら天水に行きたいと言ったんだ。自ら罰を受けに行く息子をわざわざ殺すようなことはしないだろう」

「ですが‥‥」


自信満々に言う夏后淳維に馬諬は食い下がりますが、夏后淳維は持っていた小刀で使者の縄を切ります。


「私はこのの国の跡継ぎなんだ。ここで私とは関係ない用件でいちいち使者を斬っていては、宣陽の発展が遅れることになるし、私がこの夏の跡を継いだ時に困ることになる。さあ、早く行きなさい」

「あの、馬もお貸しいただけますと」

「ああ、そうか。馬諬、馬も返してやりなさい」


馬諬がしぶしぶ差し出した馬に乗って、使者は西へ走って行ってしまいました。


◆ ◆ ◆


一方、斟鄩では夏后履癸かこうりきと妺喜がいつも通り酒を飲んでいました。


「しかし妺喜も用意周到だな」

「何のことじゃろうか」

「淳維を討つ軍を斟鄩から出したが、宣陽からも出して挟み撃ちにするというものだ」

「反乱を起こされては夏の害になるのじゃから、念には念を入れてということじゃ。姜几きょうき韓敯かんびんは確かに強いが、淳維は西へ逃げ道があるのだから一方から追うにも限界がある。挟撃によって勝利を確実なものにするのじゃ」

「さすが妺喜だ。わしのきさきにふさわしい。なぜわしは后として礼終らいしゅうを選んでしまったのだろうか」


夏后履癸は妺喜の頭を撫でて、抱きました。正直こんな汗臭いデブなど願い下げですが、妺喜は「うむ!」と嬉しそうに夏后履癸を抱き返していました。


妺喜にはもう1つ思惑がありました。この夏后履癸の跡継ぎとして、夏后淳維は特にまじめで聡明で、暴政を繰り返す夏后履癸とは距離を置いており、家臣たちから有望視されています。これを確実に仕留めてやらないと、たとえ夏が滅んでも、夏に味方し復興させようとする人が残ってしまうかもしれません。支持を徹底的に奪う必要があるのです。


◆ ◆ ◆


その次の日の未明、洛の邑で夏后淳維の泊まっているテントの外から、馬諬の声が聞こえました。


「殿下、殿下」

「どうした、まだ鶏も鳴いていないだろう」


夏后淳維はあくびをしながらも眠そうにテントを出ると、馬諬の隣にまた兵士がいるのに気づきます。


「使者でございます」

「使者か、いちいち捕虜にする必要はないとあれだけ言っただろう」

「違います。今度は殿下への使者です」

「私へ?」


それを聞いた後、夏后淳維は使者に体を向けます。


「どうした、斟鄩に帰れとでも言われたのか」

「私はその斟鄩から出陣した姜几、韓敯の使いのものでございます。この書簡を届けるようにと」

「その2人は公孫大将軍の重鎮ではないか。どれ、見せてみろ」


夏后淳維は使者から受け取った竹簡を開いて読んで、それからため息をつきます。「どうなさいましたか」と馬諬が尋ねると、夏后淳維は読み上げるように言いました。


「姜几・韓敯の五千の軍勢が、私を捕らえるために近づいている。父上は、私がこの三千の兵を使って反乱を起こすと考えている。速やかに投降せよという内容だ」


それで馬諬は、大声で質問します。


「今すぐ将兵を起こしますか?」

「いや」

「先程解放した使者は宣陽へ向かっております。おそらく宣陽の軍と挟み撃ちにするつもりではないかと。どうされますか?戦いますか?」

「私は父上から逃げたが、あくまで父上と敵対するようなことはしたくない」

「それでは投降なさいますか?」


その質問に夏后淳維は「どうだろうな‥」と答えを濁すと、地面に座っている使者に向かって言います。


「姜几、韓敯に伝言だ。忠告感謝する。今後のことはこちらで検討する」

「はい、分かりました」


使者を帰らせてしまったあと、馬諬はテントの中に入ってしまう夏后淳維を見て、テントの中に顔だけ入れてその背中に尋ねます。


「殿下。これからのことは‥‥」

「しばらく1人にさせてくれ。私は父上と戦うようなことはしたくないのだ」

「ですが‥‥」

「斟鄩に戻れば死罪になるかもしれないのだろう。それくらいのことは分かっている。あとのことは夜が明けてから、改めて話し合おう」


夏后淳維は一瞬だけ振り返ります。寂しそうな目でした。返す言葉もなく、馬諬はそのままテントから出ていってしまいます。


夏后淳維は、夏后履癸のことをほとんど尊敬していませんでした。意見を出すことは多々あったものの、命令されたことに逆らった経験はありません。それは単に、子は親の言うことを聞かなければいけないというこの世界の価値観によるものでした。

この価値観を守らないと、周囲の人の評判が落ちてしまいます。夏后淳維がこれまで評判が良かったのは、父が暴政を繰り返すような状態にあっても、反抗することなく、肯定することなく、最低限だけ従うその態度にもありました。


しかし夏后淳維には、思い出がありました。まだ子供だった時、夏后履癸が背中を押して「頑張れよ」と言ってきたことがあるのです。そのときの夏后履癸の顔は、ビジネススマイルでも憐れみでも子供扱いでもなく、夏后淳維のゆくさきを素直に心配してくれる、父親としての顔でした。夏后履癸には父親としての面がまだ残っているのかもしれません。即席の簡易ベッドに横たわっていた夏后淳維は手で顔を覆い、そして寝返りを打ちます。

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