第190話 夏后淳維の亡命(1)

正直、夏后淳維かこうじゅんいにとっても予感はありました。夏后履癸かこうりきはこれまで、たびたび、これ以上変なことをしたら殺すと脅してきているのです。いいえ、それがただの脅しでないことは、今までの行動を見ても十分に理解できるものでした。

家臣たちが帰ったあと、夏后履癸と妺喜ばっきの遊びが終わる時間を見計らって、夏后淳維は夏后履癸の部屋へ行って頭を下げます。外は一晩を通り越して、すっかり昼になっていました。妺喜は疲れたのか、ベッドでくっすり寝ている様子で、会話をしているのは夏后淳維と夏后履癸の2人しかいませんでした。妺喜のために下ろされたカーテンに囲まれた薄暗い空間で、椅子に座った夏后履癸は尋ねました。


淳維じゅんい、何しに来たのだ?妺喜の讒言ざんげんなら受け付けないぞ」


すごい剣幕で睨みつけられると夏后淳維は、深くため息をついて丁寧にはいをします。


「父上。私はこののためにひとつやりたい仕事がございます」

「ほう、それは何だ?」

天水てんすいに赴き、夏をじゅう(※異民族)から守りたいのです。父上は即位後、何度も戎と戦い一部を降伏させたりもしましたが、ここ数年の戎の要求には目に余るものがございます。兵士たちの強化は喫緊の課題です。王族が自ら赴けば、現地の士気高揚も期待できるでしょう」

「なんだ、そんなことか。いいじゃないか、行って来い」


その夏后履癸の即答に、夏后淳維は内心憤慨しました。戎との戦いの場はもちろん僻地であり、中央から大きく遠ざけられ、粗末な生活を強いられ自身の政治的発信力も下がるため嫌う人が多いです。さらに、戎との戦いは一進一退で、時に激しい戦いもあり将兵の死傷もよく出るため、とても危険というのが周知の事実です。そのような仕事を割り振られることは、一種の懲罰のようなものでした。むろん、生死を問う仕事ですので刑罰は謹慎よりも重いです。そして、この仕事をやりたいと自ら申し出ることは、夏后淳維が今までの行動を罪であったと認め、自ら罰を受けると宣言するようなものです。これをあっさり承諾する自分の父の言葉がにわかには信じられませんでした。

しかし夏后淳維にとっては、メリットのほうが上回っていました。しばらく夏后履癸のもとから離れることができます。夏后履癸が何度も残酷な刑を繰り返す、暴政を続けるなどして次々と家臣を死なせている現状で、夏后淳維はできるだけ自身の影を薄くする必要に迫られていると悟っていました。戎ではなく他の国を選択することも選択肢にはありましたが、王族がそこへ赴くとすなわちそこは夏の直轄領となること、そこの伯から国を取り上げることを意味します。


許しをもらうと夏后淳維はもう一回拝をしたあと、その足で後宮を出ます。馬車ではなく馬に乗り、兵舎へ直行して手続きします。護衛兼援軍として三千の兵、自身の腹心である金洪きんこう陳大ちんだい馬諬ばけいの3人を連れて、夕方が来ないうちに斟鄩しんしんを離れました。これも關龍逢かんりゅうほうから助言をもらったことで、夏后履癸の気が変わらないうちに離れたほうがよいということで慌ただしく準備をしていたのです。

斟鄩から天水まで、最低でも50日はかかるでしょう。軍は1日に30里を進み、これを1舎とします。1里は400メートル(※しゅうの時代の長さとされる)で、斟鄩から天水まで約650キロメートルあります。斟鄩から天水までは、斟鄩と商丘しょうきゅうよりも距離があり僻地。しかし夏后淳維にとっては、なるだけ早く斟鄩から離れなければいけません。


妺喜が夏后履癸のきさきになってから2回目の夏が、もうすぐ訪れようとしていました。


◆ ◆ ◆


一方、妺喜がそれを知ったのは翌日の昼食の時でした。


「淳維がみずから僻地に赴いたのだ。責任感だけは少しはあるだろう」


と笑う夏后履癸に、妺喜は怪訝な顔をします。


「陛下、なぜ簡単なことに気づかないのじゃ?淳維は反乱を企てているのじゃぞ」

「なんだと?」

「考えてみろ。いくら僻地だからといって、戎の強力な兵装や大軍に対応するため、それなりの兵力がある。もし淳維がそれを掌握したらどうなる?淳維が戎と戦うために強化された兵士たちを味方につけてこの斟鄩へ攻め込んできたらどうなる?特に陛下はここ最近淳維に対して不快感をあらわにし、こたびの謹慎で淳維もそれに気づきつつある。反乱の動機としては十分だろう」


夏后履癸は持っていたグラスをテーブルに置き、「その通りだ。あの愚かな男め。あれはもはやわしの息子ではない」と言うと、すぐさま使用人を通して、適当な将軍を連れてこさせます。大将軍・公孫猇こうそんこうでした。

食事の席で暴飲暴食しながら怒鳴りつけるように公孫猇に「淳維を追って殺せ」と命令した後は、邪魔な大将軍をさっさと追い払ってまた妺喜と二人きりになると、またその華奢で汚された体に抱きつくのでした。


◆ ◆ ◆


この世界において王族や伯の親戚はしばしば公孫氏を名乗りますが、これは黄帝こうてい由来のものであり、王族から離れてもあくまで黄帝の子孫であることを誇示するために名乗っているのです。三皇である炎帝神農しんのうの子孫である楡罔ゆもうを倒し、人間として史上始めてていとなった黄帝は姓を公孫、いみな軒轅けんえんといいます(※姓をとする『十八史略』などの文献も存在するが、おそらくこれはしゅうによる創作であろう)。分家であるとはいえ、代々この姓を名乗り、黄帝の子孫として黄帝が守り(※禹もまた黄帝の子孫である)が九州きゅうしゅうと定めた土地を守り抜くことに使命と誇りを感じていました。

しかし、それだけに間違ったことも嫌いでした。


夏后履癸から命令された後、公孫猇は兵舎のなかでもひとぎわ立派な建物の中に入りました。ここは公孫猇の仕事場でもあります。数人の信頼の置ける腹心を自分の書斎に集めた公孫猇は、ふうとため息をつきます。


「大将軍、また何かありましたか。ご心配なく、夏への脅威は我々がはらってみせますぞ」


腹心の1人、姜几きょうきが自分の胸を叩いて声を張り上げます。その隣りにいる、少し内気な韓敯かんびんが「それで、どのような話でしょうか」と聞いてきます。


「うむ‥そうだな。陛下が、淳維殿下を殺せと言ってきた」


その公孫猇の一言で、その場に緊張感が走ります。もう1人の腹心である妘㕵うんぼうが、公孫猇の机を叩きます。


「そんなはずがありません。淳維殿下は将来有望とされ、幾多もの家臣から守られている存在です。それを殺すなどと」

「だが、陛下がこのところ淳維殿下に不快感を抱いていたことは事実だ。鋳腑すふの刑を止めようとしたのは誰だ?」


姜几が宥めます。妘㕵は「私は陛下の勘違いだと思いますけどね」と言って、腕を組みました。公孫猇がまた頭を抱えてため息をつくと、韓敯が改めて尋ねます。


「それで、大将軍はどうするつもりですか?」

「命令は遂行するものだが、ことに淳維殿下のことになるとどうにも動きづらい。殿下はこの夏の行く先を真剣に考えておられるし、存在自体がこの夏の行方を占うものだ。陛下の命令を誤解して殺してしまうようなことは、あってはならない」

「仮に誤解でないとしたら、どのようにしますか?」

「陛下は頭に血がのぼっていたことになる。いっときの感情で国を滅ぼすということだ」

「ということは、つまり」


韓敯の掛け声とともに公孫猇は椅子から立ち上がると、腹心たちに命令します。


「姜几と韓敯に五千の兵を預ける。ただし相手は冠礼かんれい(※男性の成人の儀式)を過ぎたばかりのただの子供だ。そんなに急ぐ必要もないだろう」

「はい。それに今の時刻から出ていってはわれわれにろくな寝所もありますまい。明日出発します」

「そうしてくれ」


2人が部屋から出ていくと、妘㕵は「これでうまく行ったも当然ですな」とほほえみます。

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