第194話 夏后淳維の亡命(5) ~咸陽
「これから咸陽に入り、兵の疲れを癒そうか」
しかし陳大は神妙な顔をしていました。
「殿下。現実を見てください。殿下は陛下に敵視されているのですぞ」
「陳大までそんなことを言うのか」
夏后淳維は力なく返事すると、
「殿下。これから咸陽に攻め込むべきですぞ」
「また
「わかっていないのは陛下です。我が軍は
「馬諬は夏と戦うつもりでいるのか?」
「さようです」
馬諬はいともあっさり、悪びれもなく答えるものですから、夏后淳維は馬を止めます。
「私は父上のあとをついでこの夏をおさめるつもりでいる。確かに最近の父上の行いには不満もあるが、だからといって夏の治安を乱すつもりは毛頭ない。そのようなことをすれば、自分に返ってくるからだ」
「今の状況でそれをおっしゃるのですか?あの咸陽は、今頃殿下を捕らえるための準備をしているのです。殿下はわざわざ捕まりに行くのですか?」
「そのようなことは望まない。戦いを仕掛けられたら逃げるのみだ」
「それで野垂れ死にするつもりですか?」
その質問に、さすがに夏后淳維は返答をためらいます。馬の手綱を握って、じっとしていました。
「殿下は夏では罪人扱いなのですぞ。兵たちの疲労も限界です。咸陽を避けて直接天水に行こうとしても途中で力尽きますし、どうせ天水にも命令が回っているでしょう。今が巻き返すための最後のチャンスです。咸陽を攻め落とすのです」
「‥‥‥‥」
「どうしましたか、殿下」
「今すぐここから出ていけ」
夏后淳維は勢いよく腕を振ります。その剣幕が、馬諬にも伝わってきます。しかし馬諬はひるみません。
ため息をついて馬から下ります。
「落ち着いてください、殿下。馬諬は今の状況から最適と判断した提案をしているだけです」
「
陳大と金洪が大慌てで夏后淳維を止めますが、夏后淳維の決心は変わりません。
「お前は反乱をそそのかした。通常なら謀反で
2人の頭をかき分けて馬諬を指弾します。馬諬は少しだけ夏后淳維を睨みつけていましたが、「分かりました」と言うとぷいっと背を向けます。
「
「また言うのか!」
夏后淳維が怒鳴ると馬諬は返事もせず、そのまま歩いて行ってしまいます。
その姿が消えるのも確認しないまま、夏后淳維は振り返ります。
「では咸陽へ向かう。さすがにここまでの奥地となると、中央からの命令は届いていないだろう。休めるだけ休むんだ」
その言葉に、陳大も金洪も返事ができませんでした。
だいいち、
やがて夏后淳維は清河までたどり着きます。
「あの軍は何だ、狩りでもしているのか」
「近くに森などありませんぞ」
「ははは、そうか。だが出迎えてくれるのは都合がいい。軍を動かす前に使者を出して、敵でないことを先に示したほうがいいだろう」
そうやって夏后淳維は「陳大、行ってくれ」と言いますが、陳大は「いいえ、あちらとは身分の差もございます。陛下の顔を立てるためにも、一兵卒に行かせましょう」と返します。夏后淳維もうなずいたので、ただの兵士が使者として行きました。
しばらくたって戻ってきた兵士は、顔を真っ青にしていました。陳大と金洪は、そりゃそうだという顔でうなずいていましたが、夏后淳維は怪訝な顔をしていました。
「どうした、何があったんだ?」
「殿下、お逃げください。あちらには護送車(※罪人を閉じ込めて輸送するための車)が4人分ございます」
「そんなことはどうでもいい。守は何と言っていた?」
「‥‥ぜひ来てほしいと言われました」
「なら行ってもいいではないか」
そうやって、休息をとっている兵士たちの方を振り返ろうとした夏后淳維は‥‥後ろからぽかりと頭を殴られる感覚を覚えます。強い殴打で一気に気を失って倒れた夏后淳維を見下ろして、陳大と金洪は苦い顔をしていました。
◆ ◆ ◆
夏后淳維が次に目覚めたのは、その日の深夜でした。丁寧に、ベッドに寝かされていました。テントの中かと思ったら、ここは立派な建物の中のようです。ベッドもそれなりには豪華に飾ってありましたが、皇太子である夏后淳維から見れば粗末なものでした。
後ろから殴られた記憶はあるのですが、手足は拘束されていません。窓も鍵はかかっていないようで、逃げられると思えば逃げられます。夏后淳維は窓から夜景を眺めます。幾多もの建物がすらりと並んでいます。斟鄩ほど立派ではありませんが、それなりに人が集まって生活している痕跡があります。
と、そこに陳大と金洪が入ってきました。
「ここはどこだ?」
「咸陽の守の部屋でございます」
「そうか、気を失った私を、守はここへ連れてきたのだな」
「いいえ。我々が別働隊を編成し、咸陽を手薄になった反対側から攻め込み落としました」
その陳大の返事に、夏后淳維は耳を疑います。ベッドから足を床に下ろして、2人を交互に見つめます。
「お前、自分が何を言っているのか分かってるのか?」
「はい。それより殿下、私の話を聞いてください」
混乱する夏后淳維に、陳大は一歩ずつにじみ寄ります。
「殿下には2つの選択肢しか残されていません。戎に帰順するか、それとも斟鄩に戻って死ぬかです。どちらを選んでも、我々は殿下に従います」
それに夏后淳維はすぐ返事できませんでした。さすがの彼にも、心当たりがありました。父が自分を敵視していなければ
「確かに私も父上の暴政には心を痛めている。だが私は、父上をまだ家族だと思っている。夏に逆らうことは、父上に刃を向けることだ」
「なら、陛下のために死ぬのですか?」
「それは今すぐには決められない。明日まで待ってくれ」
2人を追い出すと夏后淳維はベッドの上で体育座りして、ぼんやりと窓の外を眺めていました。月はほとんど見えませんでした。
父は王としては愚鈍でしたが、夏后淳維はまだ小さい頃に頭を撫でてもらったり、遊びを教えてもらったりしました。その記憶がどうしても脳裏を離れません。現実はあまりに残酷です。
「天よ、なぜ私にこのような試練をお与えになるのですか」
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