第195話 夏后淳維の亡命(6) ~咸陽・天水

朝になりました。陳大ちんだい金洪きんこうの前に現れた夏后淳維かこうじゅんいは、目にくまができていました。あくびもしていました。一晩中寝ていなかったのでしょう。


「決心はつきましたか、殿下」

「ああ。ここで一週間休憩をとったあと、天水てんすいへ進軍する。じゅうに使者を送ってくれ。挟み撃ちにしたい」


追い打ちをかけるような陳大の質問にもすらすらと答える夏后淳維は、しかしまだ顔色は優れていませんでした。陳大も金洪も察して、それ以上は聞きません。


「私はなにかの間違いであると期待していたが、無駄だった。父上はあくまで私を殺したいようだ。私はもう斟鄩しんしんには帰れないし、天水で仕事することもできないだろう。このまま戎へ帰順する」

「それがようございます」

「2人とも、よくやってくれた。おかげで私は冷静になれた」

「もったいないお言葉でございます。我々もまた、罪を犯しました。どこまでも殿下にお供いたします」


2人はしっかりと深く頭を下げました。しかし夏后淳維は腕を組んで、何歩か距離を取ります。嫌なものを見たかのような顔をして、うつむいています。


「どうなさいましたか、殿下」

「‥‥馬諬ばけいについて悩んでいるのだ。私は馬諬に謝らなければいけない。馬諬は正しいことを言っていたのだ」

「そうおっしゃると思い、兵士をやって馬諬を探させています」

「そうか、ありがとう」


夏后淳維はふうっとため息をつき、椅子に座りました。そして、天井をぼうっと眺めています。その天井はまだ、この夏の文化と伝統を受け継いだ絵画芸術が仕込まれていました。もうじき、この国の絵柄での龍の絵も見れなくなるのだろうと、夏后淳維はため息をつきました。


◆ ◆ ◆


その日の夜になって、兵士が1人、夏后淳維たちのところに来ました。


「申し上げます。馬諬様が見つかりました」

「おう、見つかったのか、ここに連れてきてくれ」

「それが‥‥馬諬様は森の中で死んでいました」

「何だと?」


その馬諬を持ってこさせると、確かに担架に乗せられた馬諬は全身に無惨なほどの傷をつけられて、くったりとしていました。あの時つけていたはずの鎧も、身についていませんでした。


「おそらく賊にやられたのでしょう、金品はありませんでした」

「ああ、私はいっときのプライドとむなしい希望のために1人の賢臣を死なせてしまった」


その場にかっくり崩れ落ちて肩を落とした夏后淳維は、困惑する兵士たちの持っている担架の上にいる馬諬に何度も何度も頭を下げていました。


「ここに馬諬の廟を作ってくれ」

「お言葉ですが、戎に帰順するならば殿下はもうここには来られませんし、本人も戎への帰順を望んでいましたから夏の様式で葬るのはよくないでしょう」


金洪が口を挟むと、夏后淳維は「それはそうだ」と返します。


◆ ◆ ◆


約1ヶ月半後、道中で死なせてしまった兵士たちを除いた二千の兵を連れて天水までたどり着いた夏后淳維は、その都市をじっと見つめていました。


「戎は準備ができているとのことです。30分後、遅れて攻め込むとのことです」

「ああ、分かった」


使者からの報告を聞いた夏后淳維は、ためらいもなく天水に剣を向け、「かかれ」と唱えました。

戎と戦うためにしっかり軍備していた天水は、夏后淳維のために兵を割いた隙をつかれて戎の軍に挟み撃ちにされ、あっさり落ちました。


夏后淳維は天水を土産に戎に帰順を誓いました。戎にとっても敵国の王族が寝返ってくることは心強いです。夏后淳維たちを丁重に扱い、馬諬の死体を戎のやり方で丁重に葬りました。


この夏后淳維が、のちにしんかんしん(※前漢・後漢の間にあった王朝)を悩ませたあの匈奴きょうどという民族の始祖となるのですが、それはまた別の話です。(※匈奴の成立に関しては異説あり)


◆ ◆ ◆


斟鄩は、妺喜ばっきを迎えてから2回目の冬に入っていました。雪のふるある日、唐突に開かれた朝廷で、公孫猇こうそんこう夏后履癸かこうりきに報告していました。


「それでは、姜几きょうき韓敯かんびんに五千の兵を与えて追わせたが、見失ったということか」


夏后履癸かこうりきの険しい声に、公孫猇は面食らうことなく「さようでございます」と返事しました。

夏后淳維すらいなくなった今、こので一番頼りになるのは公孫猇しかいません。もちろん妺喜にとっては排除しなければいけない対象の1人です。妺喜はすぐさま、夏后履癸に讒言ざんげんします。


「こやつらは陛下からの厳命を受けながら軍の出発を翌日の朝にのばしたのじゃ。しかも兵から聞けば、一日に半舎(※軍隊が一日に進む距離を一舎という)しか進まぬ日もあったとか。陛下の息子を逃したのは、こやつの職務怠慢じゃろう」

「お待ち下さい。えきとの距離もございますので、軍隊は早朝に出発するのがならわしでございます。急ぎの用とはいえ性急に動いてはことを仕損じるものです。行軍距離を落としたのは、淳維殿下の軍と交戦するのに不利な地形だったためです」


夏后履癸は「ふうむ‥」と言って、それからこう言い下しました。


「わしが敵に捕まったときも、不利な地形であればそんな調子でくうだら追いかけるのか?」

「それは‥‥」

大辟たいへきだ、大辟。お前は罪人とはいえわしの息子であり王族である夏后淳維を見失った。その責任は問われても仕方がないだろう」


その言葉に妺喜は内心くすりと笑いますが、表情には出しません。「かわいそうじゃ‥」とわざとらしく言ってやります。

と、そこへ何人かの家臣たちが一斉に挙手しました。


「陛下、お待ち下さい」

「何だ?」

「大失態を犯したとはいえ、公孫大将軍はこの夏の軍の顔でございます。それを失えば、この夏は異民族や諸侯から攻め取られることになるでしょう」

「代わりはいるだろう」

「おりません。この平和な世の中で、戎との戦いや各地の反乱の鎮圧を経験し、経験豊富なのは公孫大将軍しかいません。どうか夏のためにも思いとどまっていただけないでしょうか。せめて名誉衛尉の職を作って兵権を奪うにとどめてください。そうすれば外部からの侵略があり緊急の場合にはいつでも兵を与えて指揮させるという脅しになり、周辺国家へ睨みを利かすことができます。とにかく今死なせるのはよくありません」


その言葉に夏后履癸は「ふうむ、そうだな。そうしろ」とうなずきます。横にいた妺喜は小さく舌打ちしますが、すぐに元のにっこりした表情に戻ります。


「公孫大将軍よ、失敗は誰にでもあるものじゃ。ここから巻き返せば、また晴れて大将軍に戻れるじゃろう」

「ふん」


公孫猇は妺喜の声かけにろくに返事もせず、そのまま背を向けて大広間を出ます。そのドアの近くで待ち構えていた公孫昂こうそんこう公孫誉こうそんよに取り囲まれます。


「父上、大丈夫そうでしたか?」

「ああ。大辟にはならなかったが兵権を奪われることになった」

「そんな‥」


公孫昂が心配そうに公孫猇の背中を眺めますが‥‥公孫猇は廊下を歩きながら、2人を向くまでもなく、誰に対して言うでもなく、ただ、こうこぼしました。


「夏も、もう長くはないだろうな」

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