第157話 広萌真人

「今、何と‥?」


喜鵵きつは聞き返します。広萌真人こうぼうしんじんの言葉が聞き間違いであることに、純粋な疑問と同時にわずかな希望を込めていました。


「お前の娘が夏王にさらわれたのだ。これ以上言わすな」

「それは‥なぜそのようなことが分かるのですか?」

「一言で言えば、神のお告げだ。どうだ、自分の娘を取り戻したいか?」


少しの間、喜鵵と広萌真人の間に奇妙な気まずい静寂が流れます。喜鵵は座り直すと、手を組み合わせて丁寧に頭を下げます。


「お言葉でございますが、私ははくの身です。伯であるからこそ、拙速を慎み、確かな情報をもとに行動すべきでございます。おっしゃった情報が事実であれば、我々家族一同斟鄩しんしんへ向かい、頭を下げることになるでしょう。しかし、それは‥」

「わしの言うことが信じられぬと申すか」

「‥‥はい、そのとおりでございます」


喜鵵は頭を下げたまま、表情をあらわにしません。広萌真人は「‥‥だろうな」とぼやいて、椅子に音をたててもたれます。


「信じられぬというなら、帝丘ていきゅう(※夏の都市の1つ。老丘ろうきゅうの北東にあるが商丘しょうきゅうよりは西。現代の河南省かなんしょう濮陽市ぼくようし濮陽県ぼくようけん周辺か)を見ておくといい。17日後に見張りは悪い知らせを得ることになるだろう」


喜鵵の背筋が凍ったのを見計らって、広萌真人は椅子から立ち上がります。


「わしを信用する気になったら、鶏鳴けいめいの刻に家族を連れて北の丘へ来い」

「は、はい」


それだけ告げて、広萌真人は客間から出ていきました。すれ違いざまに、茶を用意するのに時間がかかったらしく使用人がやってきたらしく、広萌真人に声をかけていましたが真人は返事もせずにつかつかと歩いていく音が聞こえました。


◆ ◆ ◆


妺喜ばっきは国民からはおそれられ遠ざけられているだけに、この国で対等の人間として接することができるのは喜鵵や兄弟だけです。本人たちもそのことをよく分かっています。

喜鵵にとっては目に入れても痛くない大切な娘であるだけに、真人の言葉を信じるべきか、喜鵵の心情は複雑で、穏やかなものではありませんでした。


喜鵵はその日の夕方のうちに独断で斥候を何人か帝丘へとばします。夏の東の端に近い都市であるとはいえ、到着には一週間くらいかかります。商人の手下に扮した斥候を4人放ち、うち1人が2週間後に帰ってきましたが妺喜について情報は得られませんでした。

その1週間後に帰ってきた1人は、斟鄩しんしん学園の生徒であった高貴の女性が外朝へ連れて行かれた、嘉石かせきに座っているのを見たなどという人の噂を伝えてきましたが、女性の名前までは相手が覚えていないため聞き出せなかったということです。


「ただ、姓だけは覚えておりました」

「それを先に言え、姓は何だったのだ?」

「姓はでございます」


それを聞いた時、喜鵵は顔を青ざめます。確かに氏族は異なるのに姓や氏が同じであるケースもあるにはありますが、確率はそんなに高くはありません。妺喜でない可能性は残っています。喜鵵は自分の部屋の中で何度も歩き回る生活を続けていました。


そしてその2日後の夜に、血相を変えて汗びっしょりのまま喜鵵の私邸へ駆け込んできた使者がいました。


「申し上げます、帝丘から3000の軍勢が向かってきております」

「な、な、なに!?一体なぜ夏は軍を向けてきたのだ?わしらは何も悪いことをしていない!」

「この軍勢は、喜珠きしゅ様が罪を得て囚われたことを申し伝え、伯に弁解の機会を与えるため斟鄩へ連れて行く時の護衛と聞きました」

「それにしては数が多すぎる。まさかこの国を滅ぼすつもりではないだろうな?」

「それは‥情報を持ち合わせていないので、私からは何とも」


斥候が部屋を出て1人になった喜鵵は、机の椅子に座って、1人ため息を付きながら、天井を眺めて何かを考えていました。やがて茶を持ってきた使用人に声をかけます。


びょうを連れてきてくれ」


呼び出されて部屋に入ってきた喜㵗きびょう喜比きひを見ると、喜鵵は立ち上がります。


「帝丘から3000の軍勢がここへ向かっているのだ」


あっけにとられる2人の息子に喜鵵が一通り経緯を説明し終わると、「最近父上が浮かない表情をしていたのはそのせいだったのですね」と喜㵗が言いました。

そこまで話し終えたところで、喜比が尋ねます。


「それで、父上はどうしますか?このまま斟鄩へ向かいますか?」

「いや、最近は賊の出没が増えてきたとはいえ、ただの護衛なら数百でもいいはずだ。さらに言えば、使者だけよこして護衛はわしらが用意するというのが本来のスタイルのはずだ。それを3000というからには、ただの善意ではなく別の目的もあるのだろう」

「別の目的とは?」

「戦争だ。蒙山の国を滅ぼすのだ」


2人の兄もさすがに黙ります。娘1人が捕まったとはいえ、国そのものを潰されるほどのことはしていないはずです。そもそも、仮にそれがあったとしても、最初に使者だけよこして伯を召し出そうとし、伯が拒否すればさらに少しばかりの兵士と使者が来て、それを拒否してやっと戦争というのが半ば常識のようなものです。徳が重要視されるこの世界において、戦争とは相手に非があること、仁徳の限りを尽くしても解決できないことが明らかになって初めてできるものなのです。夏の過去の王もそうしてきました。


「いや、今の王ならありえる。岷山みんざんの国をほぼ因縁だけで滅ぼしたんだ」


長い沈黙を破るように、喜㵗が小声で言いました。喜鵵もうなずきます。


「そうだ。今の夏王さまは、五帝ごていが神々から中華を受け継ぎ、九州きゅうしゅうを制定して以来、歴代の王が代々守ってきたものを破ってきたのだ。夏王さまはじゅう(※異民族)、岷山の国、そのほか諸々の国を、徳ではなく武力で滅ぼしてきた。その所業は孔甲こうこう(※夏の過去の王。暴君)を上回り、一線を越えたものだ。可能性はあるだろう」

「仮にそうだとして、今の僕たちにできることはあるのですか?」

「ある。ひとつだけある。広萌真人から、鶏鳴の刻に北の丘へ行けと言われているのだ」

「日付は指定されているのですか?」

「指定されていないが、行くしかない。おそらく真人もそれは折込済だろう」


丘に行く、たったこれだけで状況が打開できるとはみな思っていませんでしたが、今のところすがりつけるものがこれしかないのです。蒙山の国はかなりの小国で、用意できる兵士は今すぐ徴兵したとしても500、女や子供の中から戦える人を連れ出したとしても3000には遠く及びません。蒙山が小国なら周囲にも小国が多く、また援軍を派遣するということはすなわち夏にそむくことであるので、誰も助けたがらないでしょう。他に手段はないのです。


◆ ◆ ◆


ある日の斟鄩での朝廷を終えたあとも、羊玄ようげんは不満そうな表情を隠さず、私邸へ向かうべく宮廷の門をくぐっていました。そこに後ろから、關龍逢かんりゅうほうが話しかけます。


よう右相うしょう、いかがいたしましたか。浮かない顔をなさっておいでです」

「ああ、かん左相さしょうか‥いや、なんてことはない。この前の決議がまだ引っかかっておるのだ」

「蒙山伯を召し出す件でございますか」


羊玄は黙ってうなずきます。その目には、まだ怒りが宿っていました。


「陛下は、極秘調査の結果蒙山の国が反乱を企てていることが分かったと仰せになった。そして使者を出して、蒙山伯ただ1人を召し出すという。しかし、極秘であってもわしに一言申すのが筋ではないか。岷山の国もそのようにして滅び、陛下は2人の女を強引に奪ったのだ。決定事項になったとはいえ、わしはまだ納得していない」

「‥右相、たまには飲みますか」

「そうじゃな」


羊玄はふうっとため息をついて、慎重に深呼吸して、關龍逢と一緒に宮廷を後にしました。

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