第188話 岐倜の決意
「あなたは誰だ。どこから来た」
「
その、耳の周りに白髪を生やしている老人は、岐倜が思ったよりもあっさりと答えました。
「真人でいらしたか。申し訳ないが、そのような高貴な方に合わせる顔がない。お引取り願おう」
「まあ、待て。わしはお前と話しに来た」
そうやって広萌真人が歩み寄るので、岐倜は強く首を振ります。
「私はほんの思いつきのために2人の友人を失った。しかも残酷な方法で。2人が死んで私1人だけ生き残っては、申し訳が立たないのだ。真人などと話す資格はない」
「いや、わしはお前のような有能な人間を失いたくない。だから来た」
「それは本気で言っているのか?あの2人は‥‥」
そこまで言いかけたところで、広萌真人はこっそりと岐倜の耳にささやきます。
「そいつらが死んだのはお前のせいではない。本来なら処刑されることはなかった。お前がこの前まで言っていた通り、
「‥‥‥‥」
分かりきったことなのでしょう、岐倜はこの話に答える必要はないと思ったのか、何も喋りません。
「だが、その妺喜を生み出したのは誰だと思う」
「‥‥‥‥
「違う」
「私の父か?」
「違う」
岐倜は久しぶりに顔を上げます。困惑したように眉毛に力を入れて、広萌真人をじっと見ていました。広萌真人は岐倜に背を向けます。
「お前らの本当の敵は蒙山を討つよう
「では、誰だ」
そこで広萌真人はもう一度振り返って、こっそり岐倜の耳にささやきます。岐倜は目を丸くして、思わず後ろにすさります。ソファーに足が引っかかって、ぽとんと転ぶようにソファーに腰掛けます。
「それはありえない。そんなこと‥‥」
「お前も2人を失って悲しいだろう。戦うべきだ」
「しかし、あんなものと戦う方法はあるのか?」
「ある。だからこそ、わしはここへ来た。わしはこの世界で一番強い。だがそいつと戦うには、人民の力が‥‥ひいてはお前の力も必要だ」
岐倜はしばらく広萌真人をじろじろ見ます。そもそもこの真人は本物の真人なのか、それとも悪魔なのか。岐倜には理解し難い存在でした。
「その存在と戦う気があるのなら、わしについてこい」
「ついていくと、どうなる?」
「お前は3年後、
「子履とは‥‥新しい商伯か」
「うむ。そいつは近いうちに夏を滅ぼし、
それで岐倜はもう一度腰を抜かし‥‥すでに座ってしまっているので、口をあんくり開けて広萌真人を見上げます。
「それは‥‥
「そうだ」
「そんなはずはない。
「前世(※ここでは三皇五帝が統治していた、儒教上理想とされる徳のある時代をさす)は終わった。禹を継いだ啓は世襲を宣言し、ここに後世(※三皇五帝の徳が薄れた俗世をさす。この表現は『史記』の周本紀に見ることができる。なお後世の始まる具体的なタイミングについて記された資料は把握していない)が始まったのだ。三皇五帝が代々受け継いできた徳は薄れ、より人間らしい世の中になっている。前世のような夢の世界の話は切り捨てるべきだ。
窓の光を逆光にし、白髪をも真っ黒に光らせる広萌真人の姿が、岐倜には脅威でした。逃げようにも、自分の背中を邪魔するソファーがこれだけ恨めしく思えてきたことは一度もありません。
この世界にとって、戦争・武力によって王朝が変わることはこれまで一度も経験したことがなく、常識と相容れないものです。誰しも、今まで聞いたことのない言葉には弱くもろいものです。ですが岐倜は‥‥自分の心臓がそこまで強く鼓動していないことに気づきました。眼の前にいる広萌真人が、初めて会うはずなのに今まで会ったことのあるような、いや、会ったことはなくてもどこか自分の胸に突き刺さるような存在‥‥そんな気がします。
「そんな王朝は‥‥放伐によって成立した王朝は、繁栄するのか?」
「この夏よりは栄えるだろう。その先のことは知らぬ」
「夏より長く‥‥」
岐倜はそこで言葉を濁します。
まったくもって非現実的な話です。実現できるとはとうてい思えません。ですがこの真人はやけに、自信ありげに言います。何か隠しているに違いありません。岐倜は友人2人を殺した夏に未練はありませんでしたが、真人の後ろにあるものにわずかでも興味が芽生えていました。
「‥‥どうせこんな命です。真人の戯れに付き合えるとは光栄です」
そう言って、岐倜は立ち上がります。
「子履が三年の喪を終えるまで、あと二年とちょっとだ。これから3年間、泰山で修行しよう」
「仕官は三年の喪が終わってすぐでもいいのではないですか?そもそも三年の喪の途中に仕官しても咎められないでしょう」
「いや、それが終わった後にひと悶着あるのでな。これも終わったあとの方が都合がいいだろう」
「はあ」
広萌真人が窓に向かって歩き出すので、岐倜はあわててついていきます。
◆ ◆ ◆
その羊辛が、
羊辛は開口一番に言いました。
「すべての食料は、これより配給制にする」
ここ数年間、冷害が続き作物はろくに育っていませんでした。配給制にするのは理にかなっていましたが、それを言い出したのが羊辛というのが問題なのです。羊辛はここ最近、人が変わったように夏后履癸に突飛な提案をするようになっていました。
墓を作るのに税をとるだとか。
商売が儲かった時の税金を倍にするだとか。
娯楽施設から税金を取るだとか。
そもそも羊辛は少し前に政務のリーダーを務めることを朝廷の時に上奏し許しをもらう時、夏后履癸にもう1つお願いをしていました。
「陛下はここ最近多忙で、朝廷になかなか顔を出す機会がないと聞いております。しかし民は飢えで苦しんでおり、対策は待ったなしです」
「ではわしに毎日朝廷に来いと?」
「いいえ、その必要はございません。この私めに内政に関する人事や財務などの専権をいただければ、私がいいようにしましょう」
羊辛は王に代わって内政をやりたいと言い出したのです。いくら内政のリーダーを任されたとはいえ、悪用しようと思えば簡単に悪用できるような権利です。羊玄ですらこの権利を手に入れたことは一度もありません。王が不甲斐ないからこそ、王の権威を保つ必要があるとでも考えていたのでしょうか。そもそも羊玄が
しかし今の羊辛に専権を与えるのは問題がありすぎます。家臣たちは口々に、反対の声をあげました。ですが妺喜があらかじめ口利きしていたこともあって、夏后履癸はそのような声を全て退け、羊辛に印綬を与えていました。
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