第20話 子履の前世と古代中国の歴史(2)

「‥じゃあ、この世界で夏帝かてい(※この世界では諸侯をはく、夏のトップをていまたはこう夏后氏かこうしと呼ぶ)がそのけつになるまで、大きい戦争は起きないってことですか」

、今の夏帝の名前は知っていますか?」

「えっ」


この世界ではいみなといって、王様の名前は軽々しく口に出してはいけないことになっているのです。たとえ本や手紙に全く関係ない文章を書くとしても、そこに王様の名前と同じ字が入っているとダメです。あたしはその名前を口にするのに抵抗を持ちましたが、子履しりが手で促すので発言しました。


履癸りきさまです」

「はい。『桀』は、履癸さまの別名なのです」

「えっ。‥‥つまり、今の夏帝は、夏の最後の帝ですと‥‥?」

「はい。そして、いん朝を創始したとう王は誰のことか分かりますか?」

「その人は今も生きてるんですか?」

「はい」

「‥‥分かりません」


あたし、歴史とかそこまで詳しくないのです。まして世界史の教科書にすら載ってないようなものなんて。子履はまたにっこりと微笑んできます。


「私です」

「えっ」

「私が、歴史書に書かれる殷の湯王です」

「え、でも國の名前が違うじゃないですか、あっ夏を滅ぼしたら殷に変えるんですか」

「いいえ。殷という名前は、その王朝の第19代王である盤庚ばんこうが殷と呼ばれる場所へ遷都して以降、周辺の國からそう呼ばれるようになったものです。しかしそれ以降も、その國の人たちは自分のいる場所を別の名前で呼んでいました。大邑商たいゆうしょう、すなわちしょうが本当の名前です」


商。まさにあたしたちが今いるこの國ではありませんか。


しかし、それを子履がわざわざ言ってくるということは、何か考えているのでしょうか。


「‥‥様」

「はい」

「前世の歴史のとおりに、夏へ反乱を起こすつもりですか?」

「まさか」


子履はまたふふっと笑いました。


「私は戦争が嫌いです。事実、この世界でも夏帝はすでに酒と女に溺れていらっしゃるようですが、私は反乱を起こさず、夏帝がお隠れになり(※生存中の王が将来死ぬことを指す婉曲的な表現)次の帝が継ぐまでやり過ごすつもりでいますよ」

「そうか‥前世の感覚だとそうですよね。戦争はダメです」

「はい、そういうことです。私は前世で中国史を学びましたが、戦争は悲惨な結果をもたらします。前世の中国では何度も放伐ほうばつ(※武力によって王朝が変わること)がありましたが、前世で中国史を学んでいた私は平和裏に解決するつもりです。たとえ歴史に抗ってでも夏朝は存続し、無辜むこの人民が殺傷されることはありません。それが私の目標です」


そう子履は強く言い切りました。

戦争を起こしたくない。その想いは、あたしと共通しているようでした。歴史の本に書いている話なら何とても言えます。今ここにいる世界は、あたしや子履にとってまさに現実の世界なのです。


「実際、この世界には古代中国には存在しないものが多くあります。この建物だってそうですし、魔法も学園もしかりですし。それに湯王と呼ばれるであろう私も、摯も、もとは男性だったはずが女性になっています。大丈夫です。歴史を改変することはできます」

「‥‥あたしも同感です」

「摯、あなたもお手伝いしてもらえますか」

「はい、もちろんです。庶民のあたしでもできることがあるのなら」


あたしがそう答えると子履は安心したのか、それでもまだなにか不安を抱えているかのように、ノートに書かれている人物相関図を指差します。


「それでは、早速摯にお願いしたいことがございます」

「えっ」

「協力してほしいのです。斟鄩しんしん学園に、私の目標を、この世界の平和を揺るがしかねない人物がいるのです」

「それは誰ですか?」

妺喜ばっきです。蒙山もうざん國の有施ゆうし氏の出身で、后桀こうけつきさき(※正室はきさき、側室は妃という。ただし后が妻を指すようになったのは夏よりも後の時代と思われる。本作では便宜上、夏帝をさす言葉として后を用いるさい、后桀・夏后氏など別の字と組み合わせ、后単体では使用しない)となり、后桀を籠絡し様々な贅沢の限りを尽くし、夏を滅亡に導いた稀代の悪女です。この前、任仲虺じんちゅうきからお聞きしましたよね」

「えっ‥でも、そのような名前は聞いたことないのですが‥」

「摯。前世の古代中国では、女性のことは、上と下の名前を反転させて呼ぶのです。妺喜の場合、姓はあざなばつ(※末などとする文献もある)です。任仲虺のおっしゃっていた喜珠きしゅが、すなわち妺喜のことです(※実際には古代中国において女性の諱は不明なことが多く、妺喜もその1人である。珠は当作品において設けた架空の諱)」

「ええっ」


あたしは思わず机から身を乗り出します。子履はふうっとため息をついて、ノートにある相関図の妺喜のところを指差してから続けます。


「摯。改めてお願いします」

「はい」

「妺喜が悪行に走らないよう、私と一緒に見守ってほしいのです。母上にお願いして蒙山に間諜を放ちましたが、今のところ怪しい動きは確認されていません。いたって普通の少女として育っているようです。ですが油断は禁物です。何かがきっかけで稀代の悪女に変貌するかもしれません。そのようなことが起きないよう、妺喜を守って欲しいのです」


子履の手は動くことなく、しっかり妺喜の名前を指差していました。あたしはその相関図を一通り眺めてから、その手を握りました。


「‥分かりました。戦争が起きてたくさんの人が死なないよう、あたしにできることであれば何でもします」

「ありがとうございます、摯」


子履はつきものがとれたかのように、にっこりほほえみます。


ふとノートの相関図が気になったので、話が一段落ついたところであたしはそれを覗き込みます。

妺喜。任仲虺のいるせつの國からさらに東にある、蒙山という小国の人。そこから后桀まで矢印が伸びています。

后桀の周囲に目が行きました。桀王の後ろには、さらに『えん』『えん』という2人の人物にも矢印が伸びていますし、『羊辛ようしん』『岐踵戎きしょうじゅう』『關龍逢かんりゅうほう』『終古しゅうこ』にも伸びています。


「關龍逢と終古を除き、みな女か佞臣ねいしんなのです」


子履は手厳しく、そう言いました。

一方で相関図の子履の周りには、あたしこと『伊摯いし』は阿衡あこう、『任仲虺』は左相、ほかに『義伯ぎはく』『仲伯ちゅうはく』といった人物も書かれていました。


「‥‥阿衡とは何ですか?」

「摯がこれからつく役職の名前ですよ。この相関図は私の前世の記憶に基づいています。前世の記憶通りであればあなたは将来『伊尹いいん』と呼ばれることになりますが、それは商が革命かくめい(※めい(天命)をあらためると書き、ここでは単に王朝が変わることをさす。現代一般に使われているフランス革命など身分制度の大きな変革は、英語のrevolutionの訳語に相当する表現が当時存在しなかったために革命の語を当てはめたものである)を行うのが前提ですので、この世界でそのようなことはないでしょう」

「ずいぶん詳細に覚えているものですね」

「前世の私の父が『夏商周かしょうしゅう年表プロジェクト』という中国の事業のお手伝いを間接的にしていたので、私もその周辺の中国史を嫌というほど覚えさせられたものです。まさかこんなところで役に立つとは思いませんでした」


いやいややらされていたと言う割には、嬉しそうに笑顔をのぞかせています。

あれ?と、あたしは頭を抱えます。そういえば、あたしの前世でも、やたら中国史に詳しい女の子と出会ったような気がします。はっきりとは覚えていませんが、少なくとも目の前にいる子履よりは無口で寡黙で空気と同化するような人だったような気がします。誰でしたっけ、とても大切な人だったような気がします‥‥。


「大丈夫ですか?」


子履が顔を近づけます。よく見ると、人形のような、ぷにぷにしていてかわいい顔です。あたしは突然の心臓の高鳴りを感じて、机から何歩か離れます。子履はしばらく首を傾けていましたが、ノートを閉じてまた厳しい口調で言いました。


「問題は妺喜のほかにもあります。この世界の文化が、前世の中国から考えると滅茶苦茶になっていることです。神様は時代考証がなっていませんね。例えばヨーロッパ風の建物しかり、魔法しかり、五行ごぎょう思想も戦国時代にできたものなので夏の時代には存在せず、六礼りくれいのような高度な制度も当然夏には成立しておりません。漢字も夏の時代には存在しません。ましてや隷書れいしょ(※草書体そうしょたいよりあと、楷書体かいしょたいより前に存在した書体)が生まれたのはかんの時代ですから、私たちは本来存在しないはずの文字を使っていることになります。また記録するものもこの世界では竹簡ちくかん木簡ぼくかんよりも紙が主流のようですが、紙も漢の時代に生まれたものでした。オーパーツのオンパレードですね。ちなみに中国の夏、殷、周の3つの王朝をまとめて三代さんだいというのですが、この時代の文化水準は、日本で例えると弥生時代か飛鳥時代に近い感触かもしれませんし、建物も人の考え方もそれくらいに退化しているべきなのです。そもそも夏の時代は人口もさほどなく、斟鄩しんしん(※夏の首都)でも高々数万人だったはずなのに、この世界ではそれを遥かに上回る人口が‥‥」


うわ、急に語り始めました。早口で語ってます。早口すぎるししゃべっている内容も難解すぎるし、何を言っているか分かりません。あたしは途中から聞いているふりをしていました。

子履はノートのあちこちを指差して、べらべらしゃべりだします。下手すれば、さっきの妺喜の話よりも長いかもしれません。ですが、それを話している時の子履の目つきは、どことなくきらきらしているように見えました。あたしは口を挟まず、最後までしゃべらせることにしました。

子履の念仏や呪文のような早口は何言ってるか分かりませんでしたが、妙にあたしにとって耳触りが良いように思いました。なぜか聞いているだけで、満たされたような気持ちになります。気がつくと、あたしの口元はゆるんでいました。


それにしても子履の念仏が止まりません。もう空が赤くなっているんですが、あたしどうすればいいんでしょうか。


「この時代は武器に青銅を用いていて、鉄など扱えないはずなのです。発掘調査ではこの時代からも鉄が出ているのですが、武器など広く使われるようになるにはもっと時代が下らなければいけないはずです。ところがしょうで銭湯が造られた時、建材として鉄が使われたと聞きました。商に限らずあちこちの武器も防具も、鉄でできていることが分かりました。これも前世の古代中国の文化から考えると全く想像し得ないものです。そのあたりも解明しなければいけませんね。それから衣服も夏の時代はこんなに立派ではなかったはずです。妺喜は絹を裂く音を楽しんだという記録がありますから絹やそのほかの立派な素材はあったでしょうけど、実際にどのような染色がなされていたかは‥‥」


うん。誰かあたしを助けてください。大学教授かよ。

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