第203話 破傷風(1)

この世界では、破傷風はしょうふうは死の病の1つです。罹患したら必ず死ぬとされる病気の1つです。かかった時点で葬式の準備を始めてしまう人もいるほどです。

破傷風とは、土にいる破傷風菌という菌が傷口から入り込むことで発症する感染症です。数日~3週間ほどの潜伏期間を経て、まず口が開きにくくなり、食べ物を飲み込みにくくなります。そこから急速に症状が進行し、1週間ほどで顔の筋肉が痙攣する、背中が反る、全身の筋肉が固まるなどの様々な神経症状が出ます。2~3週間ほどを経て呼吸困難や血圧・心拍数の急激な変化などを伴い死に至ります。意識障害はないため、はっきりした意識のもとで苦痛が長時間続きます。対応としては予防のためのワクチンが最も有効で、発症後はヒト免疫グロブリンの投与のほかは、鎮静剤などの対症療法も必要になります。


‥‥というのは医療が発達した前世の知識で、この世界では病気にかかったらとりあえずうらなえ、祈祷しろなどと言われます。そんな非科学的な治療、治療と呼びたくもありませんが、には全く意味はないのですが、仮にやめさせたところであたしたちにできることがあるわけでもないです。金の浪費でもない限り放置するのが賢明でしょう。

え、なぜあたしが破傷風の詳しい知識を持っているかって?子履しりが、古代中国でよくあった病気の1つとして仕込んできたのです。ていうかそんな細かいことまで覚えてるんですよね。あたしがこの世界に転生して子履にドン引きしたことは何度かありましたが、その1つが破傷風の症状を詳しく説明されて薬‥‥じゃなくて抗体?どっちでもいいですが、その名前まで丸暗記していたときでした。


‥‥ごめんなさい、茶化している場合ではありません。今、あたし、子履、及隶きゅうたいの3人を乗せた馬車が、斟鄩しんしんから商丘しょうきゅうへ向かっています。通常は10日かかる距離ですが、子履がなんとか御者に急がせています。いつもならきりのいいところで陽城ようじょう老丘ろうきゅうといった大都市に入るように計画的に進むところですが、急いでいるので大都市ではなく小さい駅で伝舎を借りて一夜を明かします。


老丘手前の小さい駅にたどり着いて、豪華とも粗末とも言えないベッドに子履が抱きついたときのことです。向かいのベッドに座っていたあたしが、及隶を膝に座らせながら子履に尋ねます。


「つらいですか?昨日も、母上がとうわごとのように繰り返してましたよ」

「‥‥やっぱりそう見えるのですね」


子履はすっかりくたびれた様子でした。


「私には前世の記憶があります。前世の母と今の母上は関係ない人で、幼少のときは本当の母でないとすら考えたこともありましたが‥それでも、ここまで私に手を焼いてくれた存在がいなくなるのは、悲しいに決まっているじゃないですか」


あたしがなにか質問するまもなく、子履は勝手に語りだします。まだ死んでいない親の死など語るのはダブーのはずですが、いざというときのことも覚悟しているのでしょうか、膝に置いた手を握りながら、顔はうつむき気味のままあたしに目を見せません。

あたしはふうっとため息をついて、及隶をベッドの上に置きます。それから自分は子履のところまで歩み寄ります。近くで見る子履は、体を震わせていました。隣に座ると、そっと背中を撫でます。


しばらく時間が経ちます。子履がようやく泣き声を出すようになりました。我慢していたものが堰を切るように漏れ出て、小さい声の連続となります。あたしは子履が膝に置いてある手もそっと覆ってあげました。と思ったら子履が突然、あたしの胸に頭を預けます。


「大丈夫ですか?」


子履が近づいてきたので、子履の反対側の肩を触ります。背中も熱かったですが、肩も熱いです。早春だというのに、汗でしめっています。


「大丈夫じゃ‥ないです」

「お母様‥‥陛下は、きっと治りますよ」

「慰みになりません」


言った後であたしもしまったと思ったときはもう遅く、子履が即答で突っ込んできます。この世界の医療水準が前世よりはるかに低いことは明らかです。子履はそれから頭を滑らせて、あたしの膝に乗せます。


「商の国に戻ったら、何をしたいですか?」

「母上を看病します」

「陛下が好きだから?」

「はい。この世界の価値観など関係ありません。母上は厳しく、時に優しく、私にこの世界の常識を教えてくれました。前世の史料だけでは読み取れない、この世界の人たちの生々しくありのままの生活を、私に見せてくれました」


それ以上の言葉を言いよどむ子履の頭を優しく撫でます。


「手紙をすり替えた兵士を死刑にしたりもしてましたね」

「はい。重い罪を犯した人を死刑に処さないと、臣下に舐められてしまうと何度も教えられました」

「今でもあの死刑には賛同できませんか?確かに前世基準だと些細な行為ですよね」

「いいえ‥‥この世界では必要悪だと理解しています」


子履はそれから、他の思い出も話してくれました。

一緒に川へ行った時、子会しかいがまだ赤ちゃんだったので子会の近くにつきっきりでいると母が釣りに誘ってくれました。母と一緒に川の石を拾って、子会のところへ持っていきました。

文字の読み書きや学問は専用の教育係が教えるものですが、たまに母が直接教えてくれました。

漢服を選ぶ時、前世でも引っ込み思考だった子履が地味な服を選ぼうとすると、母は装飾のいくらかついた服を勧めてきました。

あたし、子主癸ししゅきのことは商王で多数の民を治める厳しい人、この冷害にありながら民の安全を第一に考え、食糧をできるだけ確保し、多数の民に愛されるいい王、姑くらいにしか思っていませんでしたが、子履の話を聞いていると、他の普通の家庭と全く変わりのない母にしか聞こえませんでした。子主癸も3人の子供を持った普通の母です。母が死ぬのはつらいですよね。


◆ ◆ ◆


。私はこれから不謹慎なことを言います。絶対に誰にも言わないでください」

「はい」


子履は斟鄩を出発してからこれまでずっと馬車であたしの向かいの椅子に座ってぼうっと外を眺めていましたが、今日は初めてあたしの隣に座ってきました。


「私は母上が死ぬのもつらいのですが‥それと同じくらいつらいことがあります。おそらく、摯にとってもつらいことでしょう」

「何ですか?それって」


確かに子履の母が死ぬと、そばにいるあたしもつらくなってしまうものですよね。でも冷めたことを言えば他人の母です。今後もたまにつらくなっている子履を慰めて、気持ちを共有することはあっても、あたしまでつらくなってしまうようなことはそんなにないはずです。

‥‥とか考えていたあたしが甘かったようです。子履は、あたしをしっかり見上げて、言葉を紡ぎます。


「三年の喪です」


あれ?どこかで聞いたような‥‥ああ‥‥ああ‥‥あ。


「三年の喪って、そう王さまがされていたような?」

「あれは三年の喪とはいいません。本来の三年の喪は、人との関わりを絶ち、白い服を着て粗末な小屋に閉じこもって、粗末な食事を取り、寝るときはこもをかぶって過ごします。これを三年‥‥実際は3度目の正月まで(※実際のやめ時は不明)ですから2年余りになりますが‥‥過ごさなければいけません」

「それは大変じゃないですか。つらくなったらあたしに言って‥‥あれ?人の関わりを断つんですか?」

「はい」

「あたしも話せなくなるのですか?」

「はい」


子履は、あたしから視線を外さないまま、小さく何度かうなずきます。


「ですから、官僚の場合は三年の喪の間は休職します」

「休職って、3年間も?」

「でも王はさすがに休むことができませんから、『相手から質問をされたときだけ』会話していいことになっています」

「じゃあ、あたしもどんどん話しかけますね」

「ただし事務的な話‥‥国の政務の話に限られます。三年の喪の間は一切の娯楽を絶たなければいけませんから、恋人との付き合いもできません」


うん。それってつまり、あたしは子履と3年話せなくなるってことですか。ん?待って。

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